私は小学二年生まで茨城県にいたから、茨城県民の歌は教え込まれた。調べたら、私が生まれた翌年に作られているから、せっせと広めていた時期だったのだろう。

http://www.pref.ibaraki.jp/profile/kenminsong.mp3

 高校一年の時、山の家へ行った際、バスガイドさんが歌っていたので、長野県の「信濃の国」も覚えた。

http://www.youtube.com/watch?v=torIjweSqrU

 しかし埼玉県歌というのはないようで、聴いたことがない。(付記:あった。聴いたら思い出した。あまり熱心に教えなかったのかな)
http://www.pref.saitama.lg.jp/what/what_25_kenka1.mp3

 あとカナダ国歌ももちろん知っている。
http://www.youtube.com/watch?v=zwDvF0NtgdU

                                                                            • -

先日、父の件で越谷市立病院へ電話したら、出た看護婦が私の話を聞きながら「うん、うん」と繰り返すから、「きみ、その『うんうん』っての、やめなさい」と言った。看護婦というやつは、患者を子供扱いするのが多くて、不快にさせられることが多いのだが、私はそのあと、看護婦長に電話して、苦情を言った。その時は「お宅の看護婦が」と言うと「看護師が」と言うから「いえ看護婦が」「看護師が」「看護婦です」「看護部ですか」というやりとりがあった。思うに、愚民どもは「看護婦」と言っちゃいけないと思って看護師看護師と言っているから、看護婦と言う人にめったに遭遇しないのだろう。

                                                                            • -

駒場学派の歴史・補遺)
 夏石番矢は、私の先輩である。仏文科から比較へ来て、明大法学部に勤めて今は教授である。本名乾昌幸、まるごと筆名である。奥さんは年上のひとらしく、これも鎌倉佐弓の筆名をもつ俳人である。
 小林恭二の本などで写真は見ていたが、初めて会ったのは1994年、日文研の研究会でだった。私が和風模様のネクタイをして行ったら、「なに、日文研へ来るからそんなネクタイなの?」と揶揄するように言われた。
 しかし、温厚そうに見えてやっぱり怖い人で、中上健次と親しかったがもう死んでいて、「女房と中上の話をしていると、冷蔵庫がガタガタいうんだよ」などと言っていた。当時は、天皇制を批判する人だった。
 その後、句集を私が朝日新聞で紹介してお礼状が来たりして、既成俳壇の中で苦労しているふうだった。
 それから番矢は『吟遊』という季刊俳誌を創刊して、それが毎号届くようになった。私は読んでいる暇がなく、実家へ送ると母が読んでいた。番矢は、海外へ出かけて、盛んに俳句交流を行うようにもなった。
 四年ほど前か、番矢の新しい句集『右目の白夜』の書評を『吟遊』に書いてほしいと言われ、送られてきたその句集を読んで、私は困った。番矢はその前に目の手術をしていて、そのことも織り交ぜての句集だったが、出来が悪かった。以前の番矢に比べて、何かがおかしくなっていると感じた。困った私は、嘘をついて褒めることも考えたが、それは難しく、遂に断りの手紙を書いた。鎌倉さんからメールが来た。
 『右目の白夜』に、手術の時のことを詠んだ句があって、「教授が教授を手術する」とあった。嫌な気がした。俳人夏石番矢が、自分を「教授」だと思っている。その頃、番矢が、人のブログに怒ってコメントをつけているのを見つけた。
http://www.cafeopal.com/diary/2006/03/14-142828.php
 怒るのは私もやるが「明治大学教授より」というのが、激しく引っかかった。
 『吟遊』の裏表紙には、いつしか、番矢と佐弓の著書一覧が並ぶようになったが、中には、論文集への寄稿を「共著」としたものもあった。
 そして、略歴には、海外の何々に出席、名誉なになに、と並ぶようになり、ある時ウィキペディア夏石番矢を見たら、それがずらっと並んでいた。私は見てはいけないものを見た気がして、こっそり、少し削除した。
 その後も『吟遊』は来続けていたが、先日最新号が届き、巻頭に平川祐弘先生の「夏石番矢讃」が載っていた。頼んで書いてもらったに違いないが、私は違和感を禁じえなかった。
 むろん、角川の俳句賞とは無縁で、俳壇の異端ではあるのだろう。しかし、番矢は何かがおかしくなっている。結社からなる俳壇を批判しつつ、自分が結社の親玉になるのは、おかしいと思う。
 何よりも、痛々しいのである。

 以上の文章は、ミクシィの日記に書いておいたものである。だが、番矢のこんなブログを見つけて、私はこれを公開することにした。
http://banyahaiku.at.webry.info/200902/article_1.html#comment
「それにたかる、もっとつまらない連中もいる」
 平川先生がつまらない人というわけではないし、番矢は「たかって」いるわけではないのだが、かつての反骨・天皇制批判の夏石番矢が、こういうことを書くのが、もう私には耐えられない。
 「彼は昔の彼ならず」

 (小谷野敦) 

 芳賀・平川時代に「トンデモ修論」がいくつかあった、と書いたが、その一つは私のである。あれは創造的誤読評論だが、学術論文ではない。
 ただ、そういう、無理やり関係ないものを比較したみたいなのとは別の意味でのトンデモ論文が、五年くらい前に出たことがあった。
 合評会で私が評者になったので、読んでぎょっとした。エマソンが「詩人」と対比して「sensual man」と書いているのを、北村透谷が「俗人」と訳している。なぜ透谷は俗人と訳したのか、が論じられているのだ。
 「sensual man」は「俗人」である。それで古い『エマソン選集』が、当時まだあった教養学科図書室にあったので見てみたら、斎藤光が「官能的な人」と訳していた。この斎藤光というのは性科学者の人じゃなくて、英文学界の重鎮で孫に殺された斎藤勇の長男で東大教養学部教授だったが、著書も『エマソン』一冊しかないし、よほどのダメ学者、親の七光り学者だったようだ(まだ生きている?)
 こんな論文、活字にして、英文学者に見られたら大恥ではないか。
 だから合評会ではさんざんなことになったのだが、若い彼が間違うのはいいとして…いや良くないが、脇で聞いていた指導教員らしい某教授が「それ、OEDの何番?」と訊いたので、私は、OEDなんか見なくたって普通の英和辞典に出ています、と言ったのだが、このレベルの人が東大教授で指導しているから、こんな論文が活字になるような大へまをやらかすのだ、と思った。平川先生だったら、載せる前に読んで気づくのである。その程度には立派な実力はあるし、私も英単語の発音が変で平川先生に笑われたことがある。ダメな学生を笑う教授のほうが、自分がダメな教授よりはいいに決まっている。
 まあ今では井上先生とか、佐藤光とか(名前は斎藤光に似ているが)いるから大丈夫だろうが・・・。  

                                                                  • -

がんは早期発見が大切とか、中川恵一先生そ知らぬ顔で書いていたけれど、肺がん検診を受けている人と受けていない人を抜き取り検査したら、受けている人のほうが死亡率高かったんだよ。だから肺がん検診やめたの。つまり、レントゲンの放射能で発症するってこと。私は十年以上レントゲン放射は浴びてません。

                                                                  • -

東京新聞」の「大波小波」が月曜に『東大駒場学派物語』を取り上げていた。「労作」と書いてある。しかし、そこは大波小波、最後はおかしなことを書いていて、「小谷野に問題がないわけではない。人物を簡単に右翼左翼に分け、反共容共のレッテルを貼り付けてしまう点である」とあるが、私はそもそもこの本で「容共」などという言葉を使ったことさえない。まあせいぜい、神野志先生は共産党シンパだから平川先生と合わず、程度のことは書いた。しかも「簡単に右翼左翼」になど分けてはいない。四方田犬彦はどちらに分けられていたかな。
 もしそれを言うなら「天皇崇拝家」というのが、私がここで特筆大書したことなのに、それがなぜかこの「もてる男」と称する書き手には「反共」に変換されてしまうらしい。私は共産主義者ではないが、共和主義者である。多くの日本人は、この区別がつかないようであるが。

                                                                • -

安藤礼二が栗原さんのところで、私の知人某と三人でのカラオケを提唱している。しかし著書三冊で、賞を四つもとっていると、妬ましくて困る。私だって伊藤整文学賞は欲しかったのだし。まあこういう時にじっと黙って「嫉妬しているんだろうな」と思われるより、先に、嫉妬している、と言ってしまうのが私流。とはいえ、実力者なら嫉妬しない、と書いたことがあるけれど、安藤氏が対象にしているものって、私が評価していないのばかりなのでなあ。
小谷野敦

http://booklog.kinokuniya.co.jp/tsuda/archives/2009/05/post_29.html
 津田さんが書評を書いてくれた。なお平川先生が、電話で三時間お説教したというのは、あくまでデマとして耳に入ったという書き方で、ご当人も否定しておられるから、45分くらいだったのが伝言ゲームで長くなったのだろう。
 昨日の「東京新聞」に、中村和恵宇野邦一の『ハーンと八雲』の書評を書いていた。相変わらず、平川先生とポスコロ派と両方に色目を使った書評だなあ、と思ったが、最後のこれはいただけない。

 もしかしたらハーンについて最初に考えなくてはならないのはむしろ「日本を愛した西洋人」を敬愛するわたしたち日本人の内面なのかもしれない、と本書を読んで気がついた。日本のハーン論とは、日本人の日本論を写す鏡でもあるのだ。

 一見、もっともな話、というか、これまで気づかなかったのかよと言いたくなるが、よく見ると「わたしたち」は余計である。「わたしたち」さえなければ、制限用法で「平川祐弘のような日本人」になるのだが、勝手にわたしたちって括らないでほしいのである。少なくとも私は入っていない。もっともフェミ二ストもよく、女全体を代表するような物言いをしていたがね。だからこれは「…を敬愛する平川祐弘とその一派のような日本人」「平川祐弘とその一派の日本論」が正しい。

                                                                • -

水谷尚子さんがおかしなことに巻き込まれている。ググると二番目に水谷さんを非難する文章が出てくるのだが、どうやら高田純とかいう学者を中心とした「日本ウイグル協会」というのが、ウイグル独立運動の人を招いて日本でシンポジウムをやろうとして、しかしその協会が「右翼」「反中」であると見た水谷さんが、そういう事情を知らない運動家を呼ぶことに反対した結果らしい。水谷さんが「妨害工作」をしたとか盛んに書いてあるのだが、具体的に何をしたのかほとんど分からなくて、ミクシィの日記に粘着したとか、失笑してしまうようなことしか書いてないのだよね。
 もっとも水谷さんも、ミクシィで活動しているだけじゃなく、自分のサイトを作って立場を鮮明にすればいいのにと思う。私はまあ、中共独裁は倒れたほうがいいとは思うが、「右翼」であるつもりはないので、水谷さんの立場は理解する。しかし政治運動は厄介で、日本では、「左翼」にすると強制的に「護憲」がついてき、「右翼」にすると天皇がついてくる。

                                                                  • -

国会図書館で、波多野烏峰『印度独立運動』を見ると、はしがきに、自分は南信八ヶ岳山麓に住まう無名の農民であるが、30年前の大正二年、『日本よ何ぞ印度の独立を援けざるや』を刊行した、とある。昭和17年に、波多野烏峰は生きていたのである。
 すると恐らくは、波多野養作は烏峰ではなく、レザラズィ氏が何を根拠に養作を烏峰としたかが問題になろう。逆に里見とんは、恐らく戦後になって、新潟のほうへ波多野春房を訪ねたと言っているから、春房が烏峰である可能性が高まってきた。
 結論=レザラズィ氏が、波多野養作と波多野烏峰(春房)を混同した。

                                                                  • -

週刊ポスト』1991年5月10・17日号に、「47年目に公にされた里見とんの東条英機暗殺計画」という一ページの記事がある。原田熊雄の女婿・勝田龍夫日経新聞の「私の履歴書」に書いたので分かったといい、かまくら春秋社の伊藤玄二郎に訊くと、よく里見は話していたから周辺の人は知っていた、とある。
 変な記事。里見が東條を殺そうとしたことは、戦後すぐの「姥捨」以後、何度か活字になっている。伊藤氏が知らないはずはないから、調べているうちに「47年ぶりの真実」でないことは分かったのだが、せっかく取材したからというので記事にしてしまったのだろう。
 確かに勝田の「私の履歴書」(『私の履歴書 経済人28』)にはこの話が「未公開の珍話なので紹介する」と書かれている。勝田が「姥捨」など読んでいなくても別に不思議はないのだが、「未公開」というのは事実誤認である。

 私はキネマ旬報ベストテンが発表されると、それらの映画のDVDを借りて観る。それをキネ旬至上主義だの権威主義だのと言う人がいるのだが、それはあくまで「目安」である。もちろん、それ以外の映画を観ないということはないし、もしベストテン映画が下らなければ、映画評論家というのはダメだということが確認できるわけである。ノーベル賞だって同じことで、もしノーベル賞をとらなければ、シンボルスカの名など知らなかったろうし、オルハン・パムクやイェリネクも知らなかっただろう。いちいち目安に目くじらを立てることはないのである。

                                                              • -

(『駒場学派の歴史』補遺)
ピーター・デールの『日本的独自性の神話』というのは、日本文化論の非学問性を指摘したいい本なのだが、邦訳がない。実は1989年頃佐伯順子さんが翻訳していたのだが、なぜかお蔵入りになってしまったという。もっとも、佐伯さんは伊東俊太郎から「君、あんな本を訳したら、日本文化論をやっている人たちから総スカンを食らうよ」と脅されたそうである。

 昨年暮れ、ひどい目に遭った。東大比較の先輩であるYという女性教授から、比較が美人をかわいがる点については面白い話がたくさんあるので私と対談したい、と言ってきたのは秋ごろか。すぐには無理だったので、12月になって編集者に室をとってもらって対談したのだが、途中で心変わりしたらしく、比較は美人に甘いというのは、ないと思いますと言い出し、私は、話が違うと内心で驚きつつ、その場は平和裡に対談を終えたのだが、帰宅してその人のメールを見たら、明らかに「裏切られた」ことが分かり、対談を没にした。一昨日あたり行われた平川先生の出版記念会に、その人も出席していたそうだが、既に教授なのに、何ゆえ旧師や出身研究室をそう怖れるのか、実に不思議である。編集者に盛んに売り込んでいたというから、売り出したかっただけかもしれない。

 ふとしたことから、わがディーヴァ藍川由美さんの夫君が片山杜秀氏であることを知った。片山氏の名は知っていたが、調べたら、音楽と政治思想の研究者、慶応大学博士課程中退。しかし大学教師ではなくて音楽業界の人のようだが、著書がない。藍川さんのCDの解説はこの人が多く書いている。なんか謎の人だ。そして、年は私の一つ下。がーん。
 藍川さんは1956年生まれだから、七つ年上ということになる。だが、あの藍川さんであるから、羨ましい。何も二十歳年下ばかりが羨ましいわけではないのである。と何ものかへの弁解のごとくに書く。

                                                • -

あれは1994年秋、芳賀徹先生の引率で、東大比較の人たちが江戸東京博物館へ行った。その春阪大に就職していた私も加わった。修士一年生だった鈴木禎宏君もいて、吉原の展示を見ながら「吉原って今はどうなってるんですか」と訊くから「ソープランド街だよ」と答えて、無知だなあと思ったが、考えれば私だって修士一年の頃は、その程度のことも知らなかったかもしれない。鈴木君は昨年、サントリー学芸賞を受賞した。