私が大学院生の頃、上海から陳生保という、50歳くらいの学者が博士号をとりに来ていた。いま調べて、当時60歳くらいに見えたなあと思う。「森鴎外漢詩」という題で論文を書いたのだが、審査員のうち古田島洋介氏が、いたるところに間違いがあると指摘し、五人の審査員の協議で、一人だけ博士号授与に反対したため全員一致にならず、ただし間違いは訂正することを条件に授与された。
 のち明治書院から同題で刊行されたが、『比較文学研究』に古田島さんが細かな間違いをあげつらう全否定に近い書評を書いた。聞いてみると、古田島さんは間違いをリストアップして陳氏に送ったのに、全部無視して刊行したのだという。世間にはこんな博士論文もある。

佐伯彰一先生を偲ぶ会」が神田の学士会館であったので行ってきた。が、受付で会費を払い、何か配り物をもらってから、喫煙室へ行ったら、六年前は各階の廊下にあった喫煙所が、一階の片隅にガラス張りで小さくあるだけで、さらに配り物を見たら、平川祐弘が1997年に「とやま文学」に書いたとかいう「批評家佐伯彰一を批評する」という文章のコピーが入っていて、そこでは佐伯先生が『神道のこころ』を出した時の出版記念会で「この本が出ていわゆる右翼と呼ばれる人は喜んでいると思います」と小堀桂一郎が言った旨が記されて、そのあと小堀先生の悪口が延々と書いてあった。
 小堀先生も発起人だったのだが、座席表を見るといない。こりゃ恐ろしい会だなと背筋が寒くなった。いや知らない人から見たら平川先生も右翼なのだが、右翼の世界にも内ゲバがあることは「あたらしい教科書をつくる会」を見たって分かるであろう。
 私のテーブルには夏石番矢と西原大輔がいたので、これはたまらんと、そのまま帰ってきた。会費は香典と思って貰いたい。それにしてもこんな文章を出席者に配ることを許した運営もどうかしている。
 ところでその珍文章に、「日本人は自我がない」と言われていたのが、佐伯先生の『日本人の自伝』によって自我があることが証明された、というような一節がある。平川先生はこれをよく言うのだが、「ない」ってことはないだろうし、そんな異様なことを主張した人はいまい。また、日本人が日記や自伝を書いたから自我がある、というのであれば、別に佐伯先生が書かなくても自明のことである。このあたりも、ルース・ベネディクトなんぞに対して被害意識をもった平川さんの反米的妄想なのである。
小谷野敦

 塚本明子先生が駒場へ来たのは、ちょうど私が大学院へ入った年で、46歳になった年だった。筑波から来たので、加藤百合さんと同じということになる。
 川本先生だったか、塚本先生を紹介して、イギリスで博士号をとって、ケンブリッジかオックスフォードか、と言ったら、平川先生が嬉しそうに「ケンブリッジ!」と叫んだ。
 深夜の酒宴になって、あまりなじめないで塚本先生が後ろのほうに一人で座っていると、小堀先生が脇までやってきて、「お嬢ちゃんは」と訊いたのを覚えている。
 その後、私と塚本先生には接点がないままだったが、だから娘さんがいるのは知っていたが、誰なのかは知らなかった。塚本利明かとも思ったが、そうではないようだった。近ごろ、塚本先生が出した訳書の監修を塚本泰(1938- )という人がやっていたので、この人か、と思ったが、NDLではこれを「塚本泰司」と同一人としている。しかし厄介なことに塚本泰司(1949- )という札幌医大教授がいる。これと違うのは分かったが、なんで泰だったり泰司だったりするのかは、分からない。

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ところで、私は詩が苦手である、ということはたびたび言っている。しかし大学の文学科というのは、今なお詩が主流である。比較もまた、芳賀、亀井、平川、川本とみな詩好きだし、小堀先生だって和歌である。要するに私にとって、言葉というのはツールでしかないのである。チョムスキーに傾いたのも当然であろう。
 高村光太郎とか萩原朔太郎が偉いのは分かるのだが、中原中也なんて、あんな気持ち悪いもののどこがいいのかと思う。大江健三郎も詩が好きだが、それで詩人にならずに良かったと思う。それで先日読んだ大江の短篇で伊東静雄の詩がモティーフになっていて、杉本秀太郎の解釈が良かったとあり、私はその詩に全然感心しなかったのだが、岩波文庫の杉本編『伊東静雄詩集』を買ってみたら、最初の五ページくらいでもう耐えられなくなり、売ることにした。

 藤原書店の雑誌『環』で平川祐弘先生が私の悪口を言っていると教えられて、現物を見て、藤原書店に電話したのが12日の木曜日だ。西泰志(たいし)という担当編集者が出て、編集長=社長の藤原良雄なる者は沖縄出張中で、これから平川先生に電話すると言う。で藤原書店の「お問い合わせ」からメールをしておいた。さて月曜になって電話すると西である。私が、藤原氏と話したいと言うと「その必要はないと思います」と切り口上で言う。あとで撤回したが。それに考えてみたら、平川上皇(比較研究室での呼称)に反論するのに、その前に上皇と話し合ったりするのはちと筋が違うが、これは私が例によって、名誉毀損だ裁判所だと言ったせいだが、西が、自分は責任者ではないので軽々しく約束できない、と言いつつ、月曜の電話では内容について話したりするからで、しかも私のメールへの返事はないし、電話番号を教えたのにあちらからは決して連絡はない。
 これは粕谷一希との対談で、全体として、何やら『諸君!』や『正論』にでも載っていそうな代物、それなら私もブログで反論するにとどめるのだが、藤原書店というのはもっとまともな出版社だと思ったから驚いたのだが、どうやらそうでもないらしい。粕谷は藤原から三冊本を出しているし、どうやら藤原社長と親しいらしい。
 さて現物は「本をめぐる対話 第4回 比較という思想‐西洋・非西洋・日本」という、粕谷がホゥストで毎回ゲストを呼ぶものらしい。
(活字化のため削除)
 問題はこの西泰志である。12日に電話した時は「責任者ではないから何も言えない」と言い、では責任者たる藤原の帰りを待って16日に電話したら、藤原と話す必要はないと言い、しかし「ありもしないこと」については「見解の相違」だなどと言う。19日に、なぜ責任をとれないのに君の解釈を話すのかと問うたら「じゃあ私に訊かないで下さい」と言う。まるで官僚だ。藤原が出てこないから、お前に訊くしかないではないか。平川上皇に直接訊けというのであろうか。私は平川上皇は悪意をもって嘘を並べていると思っているから、それは意味はない。それなら私の反論を載せさせるしかないのだが、その前に平川上皇と相談する、というのでは、まともな対応は期待できない。何が見解の相違だ。お前のようなやつは出版社ではなく、官僚にでもなったほうがいいのだ。
 「次々と言いよってふられた」の「次々」というのはいったい何人であろうか。学部時代に一人くらいいたけれど、平川上皇がそれを知っているのかどうか。「元気にな」ると結婚できるのか。だいたい仲人を頼んだことなど、なんで『駒場学派物語』に書かねばならんのか。私は前の「結婚」については、書いたら訴えると前「妻」から言われているのだ。さらに言うが、仲人は祝儀を出し、仲人料としてその倍返し、というのが常識で、うちはお礼を先に渡して、半分返ってくるものと思っていたら返ってこなかった。こんなことは書きたくないけれども、上皇が書かせるのだ。
 読んでいない人が勘違いするといけないが、私は何も平川先生の悪口ばかり書いてはいない。離婚後意気消沈していた鶴田先生のために送別会を計画したなどということも書いているのだ。なぜそれが分からないのであろうか。よいことも悪いことも書く、それが「歴史」や「伝記」のあるべき姿だと私は信じている。「歴史」と聞いて、まんじゅう本のごとき礼賛本を期待したら、私は官僚ではない、と答えるほかない。
 「殺し文句」というのは、『日本国語大辞典』によれば、男女間で、相手を口説き落とす時に使うものである。しかもレッテルを貼るも何も、平川先生の書いたものを読んでいれば、天皇崇拝家で、神道礼讃派で「右翼」であることは誰の目にも明らかなのに、なぜそれを否定するのだろう。私は何度も手紙のやりとりをしたが、答えに窮すると平川先生は返事をよこさず「会って話したい」などと言い出す。しかも平川先生に関しては、私はほとんど、活字情報のみに基づいて書いているのであって、もしそれがスキャンダラスに見えるとしたら、それは平川先生ご自身が、面白くてスキャンダラスな人なのである。   
 しかもこの対談は、加藤周一とか森有正とかの、それこそゴシップ的な悪口満載で、昔から平川先生は、人の追悼文で悪口を書いたり、マサオ・ミヨシが日本で英文学者として認められないのが不満だったとか、学習院の助手だったのに米国へ渡って大江健三郎など持ちあげているから天皇嫌いであろうとか書く人で、総合すると平川先生は、自分がゴシップを書いたり悪口を書いたりするのはいいが小谷野が書くのはいかん、と言っているとしか思えないのである。  
 世の中には「真正保守」とか「真正右翼」と名乗る人もいるのに、それを否定するのが平川上皇のおかしなところである。「殺し文句」というのが、誤用としても、論壇から抹殺されるとかいう意味であれば、上皇はその後、私が一部批判した『アーサー・ウェイリー』(白水社、二〇〇八)で日本エッセイストクラブ賞をとっており、全然抹殺されてなどいないではないか。
 平川上皇は、自分は「国際派」だからナショナリストではない、と言う。私には「国際派」という言葉の意味が分からない。まあ一般的に、海外へよく行っているとかいう意味なのだろうが、海外にも日本ロイヤリズムの同調者はいるわけだし、別段何の意味もない。というより、なぜ事実を言われて困るのか。
 それくらいなら、堂々と、自分が天皇崇拝家であると表明する小堀先生のほうがましである。あるいは谷沢永一のように、天皇を崇拝しない者とは袂を分かつ、と言うほうがすがすがしい。
 もう一カ所は、相変わらずチェンバレンの悪口で、「ウェイリーも、これだけチェンバレンのことを否定的に書いている、ということを新たに示しても、それでもまだ『チェンバレンチェンバレン』と持ち上げているのが小谷野敦。よく読みもせず、私にからんできて…」その後太田雄三が、元助手だったが、私にからんでいる、とある。
 私はチェンバレンを持ち上げてなどいない。平川先生がチェンバレンを批判するのがことごとく的外れないしいちゃもんだから指摘しているだけで、手紙さえ書いたのにそれには返事もせずにこういうことを言うのだ。上皇にとっては批判されると「からむ」ことになるらしい。太田雄三にしても、英文著書で平川説を論駁し、それはヒュー・コータッツィも書評で取り上げ、日本のハーン信奉者は読むべきだとしているのに、平川上皇はこれには一切答えない。
 なに、チェンバレンの『日本事物誌』は、天皇制を批判しているというので、戦前は邦訳されなかった本であって、平川上皇はだからチェンバレンが嫌いなのだ。またその上皇の『アーサー・ウェイリー』は「英語のできない国文学者」とか悪口も多いが、もし本文しか読んでいない人がいたら注を精読すれば、他人の悪口だらけなのに驚くだろう。「エッセイストクラブ賞をとった良書」と思って読んだ知的な中年女性など、注まで読んだら「おおこわ」と肩をすくめるに違いない。  
 78歳になる平川先生のことなど放っておいてもよい。だが平川氏よ、この対談を読んで、あなたの言うことを信じる人などあまりいませんよ。晩節を汚さぬよう、ご自重いただきたい。
(付記)夕方、上掲の西より電話があり、次号で反論も訂正も載せるつもりはない、理由はない、との切り口上であったが、別段この記事が上がらなくても同じだったろうと思う。
http://banyahaiku.at.webry.info/200910/article_30.html
 別に私が「A新聞の記者」に言おうが言うまいが、
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/8d708fb93d1219f8963fe5ef1bef2241
 何も知らない人だってそう思うよ。
http://a-mizuno.blog.so-net.ne.jp/2009-09-17
今井源衛がサイデンステッカー英訳から影響を受けたなんて考えられないのだが、サイデンさんは天皇制に批判的だったから、平川上皇にはやはり気に入らないのだ。
 (小谷野敦

 大学一年の時、同じクラスにNという男がいた。筑駒から一浪で入ってきた。この男が、アニメ・少女マンガ好きであった。詳細は不明だがアニパロ同人誌にもかかわっていたらしく、私をアニメ好きと見て、時おりそのアニパロ誌を笑いながら見せるのだが、どうも面白くなかった。
 夏に『伝説巨神イデオン』の映画があって、その後クラス合宿で山中湖へ行った時、夜雑魚寝に近い状態で、私と彼が「あのガンド・ロワってのは…」などと話していて、他の連中がついてこられなかったりした。
 「オタクのはしりの話か」と思うだろう。だが、そうではないのだ。Nは、割と長身、ドイツ語クラスなのに、始めからかなりドイツ語ができ、知識は幅広く、話題も豊富で、合宿の時など、クラスに九人いる女子全員がNと行動を共にし、他の男子はほとんど茫然として男だけで行動するほどだったのである。男の側でも、Nがいると話が面白いというので、はじめの半年はNを中心にクラスが動いているようだった。
 サークルにいたK氏も、これに似たところがあり、結婚式の二次会で、『アルプスの少女ハイジ』のペーターとハイジのかっこうをして、同アニメのオープニングが流れる中入場してきたが、これまた女子にもてもてであった。
 一年生の頃の私は、それこそデヴィッド・コパフィールドがスティアフォースに対して抱くような「男の理想像」を、この二人あたりに見ていた気がする。
 このような経験から私は「オタクだからもてない」というのは嘘だと思っている。「オタクでしかないからもてない」とでも言うべきか。

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そういえば北村薫さんが、雑誌の付録というのは残らない、と話していたが、国会図書館では付録はどうしているのか、というに、1990年ころまではとっておいたのだが、種が芽生える、というような事件があって、以後廃棄するようになった、との説あり。種が・・・。

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駒場学派補遺」
 平川先生の著書に、筑波大から講演に呼んだ教授のそれが、準備不足でひどいもので、あとで「汗顔の至り」と手紙が来たが「同感の至り」と返事を出したかった、と書いてある。
 しかし、講演のその場で不満を表明したこともある。誰だか忘れたが西洋人が駒場へ来て日本語で講演をしたが、どうもちょっとまとまりがなかった。しばらくして彼は司会の平川先生に「まだ時間は大丈夫ですか」と聞いたが、平川先生は「いえ、もう結構です」と言った。彼はよく意味が分からなかったのかそのまま続け、その後は何ごともなかったが、あとで平川先生は「今日のあれはひどかった」と言っていた。

 (小谷野敦

 『比較文学比較文化研究室通信』というのが届いて、平川先生の『アーサー・ウェイリー』出版記念会の様子がレポートされていたのだが、驚いたのが中村和恵のスピーチで「自宅の前に、平川先生に似ている郵便配達者が来たと思ったらご本人だった、という、愛弟子宅への突撃訪問を好む」という話。中村は都内に一人暮らしのはずで、いくら愛弟子でも女性一人暮らしのところへ突撃訪問しちゃまずいでしょう、先生…。
 鶴田欣也先生も、晩年盛んに中村和恵に電話していたらしく、ガンだと分かる前だとしたら、中村というのは何かそういう老人の慰撫に力を発揮する人なのだろうかと思ったことであったが、だいたい平川先生は、それ以外に誰のところを突撃訪問しているのであろうか。
 

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柳美里の『石に泳ぐ魚』は、最高裁で出版差し止めされたのに、新潮社が強行出版したのだと思っている人がいることが分かった。当時、原告側が非難したからそう勘違いしたのだろうが、裁判所が差し止めているのに出すわけないだろう…。でも滋賀県のほうで裁判所命令を無視した市長もいたけど。

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今日は二つも、私のインタビューやコメントで「僕」を使っているのを目にしてしまった。私は「僕」とはいわない。「俺」ならときどき使うが、僕は、芝居のせりふでもない限り、ない。もう十年前から言い続けている。

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http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20061031
この表題だが、その後『だいにっほん、ろんちくおげれつ記』213pに「例えば詩人の俗物性抑圧性という事で笙野がまず思い出すのは荒川洋治である」とあった。
 また同書225pには大活字で「東ヲタ紀なんか自然主義ロマン主義まで一本化しやがって柄谷二次元近代よりまだ単調! 批判の価値もねえ!」とあった。最近、笙野は東を批判しないとどこかのコメント欄で書いたので訂正いたします。

 私が入学した年の八王子合宿で大岡信がゲストで来たことは書いたが、二年目のゲストは、民俗学宮田登先生だった。ところが、宮田先生を紹介した芳賀先生は、「宮田さんは『ミクロ信仰の研究』などで知られ」と言った。聴衆の多くは
(…『ミロク信仰』だよ…)
 と思っていたはずである。
 黒柳徹子は、井上ひさしが「徹子の部屋」に出た時に、「井上さんは、『手さぐり心中』で直木賞をおとりになって」と言った。手鎖心中だよ…。

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http://www.kyusan-u.ac.jp/kyoin/index.php?execmode=vew&cd=131
淀殿』を書いた福田千鶴先生です。私には美人に見えます。