http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news008198.html

 佐伯さんの連載を読んでいると、この人は勉強していないなー、というのが分かる。まあ新聞だから、堅苦しい話はなるべくなしでと言われたのだろうが、それをさっぴいても、テレビの話が多い。
 土居健郎の『「甘え」の構造』なんてインチキだし、日本文化論としては成り立たないと言われ、当人もそれを認めていたのに、知ってか知らずか、多分もうどうでもいいのだろう。
 それにしても、論理的に変であったりもして、

日本の文学青年たちは、母親が大好き。いつもきれいでやさしいと信じて疑わない。母親もそんな期待に応えて、つい理想的な母を演じ、息子を甘やかしてしまう。女性作家たちは、そんなイメージが幻想であることを、しっかり見抜いているのに。

 なんで「文学青年」が出てくるのであろうか。まるで山下悦子みたいだ。谷崎先生は、実はそれほど実の母親を慕っていた様子がないのである。志賀直哉に至っては、実の母はとうに死んでいて、おばあさんッ子だったし、川端も幼時母をなくしている。「女性作家たち」っていったい誰のことか。宮本百合子なら分かるが、笙野頼子のことか?
 もう二十年くらい前の「フェミニズム批評」の紋切り型で、それを「男女共同参画」とやらにつなげていくという、典型的な、官僚的学者の文章である。やんぬるかな。
 だいたい、母親連れで米国留学した人に、こんなこた言われたかないね。

                                                                            • -

なんか今ごろ『紙の爆弾』に載った俺の記事をネット上で見つけたが、インチキ記事だなあ。一度も勝訴したことはない、って井上はねこには勝っているし、「格下のフリーライターを」って、国相手に訴訟を起こしているのに、何を言うやら。それに宮台真司って格下か? (こいつめ、それを言われると思ったのだろうが、「小谷野から見て格下」とか書いているが、自分で勝手に格下と決めておいて、なんで俺が格下だと見ていると決めつける?)笙野頼子は明らかに格上なのに、無視。それに芳賀先生と決裂なんかしてないし。こいつ、碌に私の本も読まずにウィキペディアでも見て書いたんだな。でたらめな雑誌だなあ。
 それにこの記事、俺に処世術を説いているが、変な反体制雑誌だ。フリーになれば良かった、って意味が分からない。現にフリーなのだが。つまり学問的良心を捨ててお前らのような薄汚い裏ありのライター仕事でもしろ、ってことかね。けったくそ悪い雑誌だぜ。
 書いたのは昼間たかし本人だろう。なるほど、匿名が好きなやつなんだな。むしろ昼間の、立正大卒ゆえのバカさが露呈しているよ。
 ついでに乙川知紀にも言っておきたい。荻上チキというのが乙川であることを知っている人間は周囲にいたはずである。少なくとも顔写真を出した時点で見る人が見れば分かるわけ。すると乙川は彼らに口止めをしたのだろうか。いったい、何ゆえ乙川に、他人の表現の自由をほしいままに奪う権利があるのであろう。

                                                                              • -

絲山秋子はもう一つ変なことを言っている。豊崎東浩紀に、作品評への返答はもう少し先にしたら、と言ったというのを受けて「ドストエフスキーが返事をしたら嫌ですもんね」と言うのだが、ドストはともかく、当時だって作家本人が反論することはあったし、その後もある。
辻井喬の『暗夜遍歴』にこんなアマゾンレビューがついている。

筆のリンチ, 2008/1/19
By lm700j "103-3000" (コネチカット州)
うーん、父の肖像とはだいぶ書いてあることが違うぞw
父親の最初の娘の婿で側近の島月正二郎ってのがくせ者
電鉄会社と不動産を継承していることからしてモデルは誰かさんですね
苦労人と若干の同情はしつつも器の小さい人間として描いている
そして自分が建てようとしたホテルを妨害するとかね
いくらフィクションといったところでこれは酷いw
若干設定は異なるとはいえどうみても、と思うのは世の常
たぶんそこまで計算に入れて書いたんだろうな
今は絶版になってるのはそういう経緯もあるんだろう
偉大でそれなんてエロゲな父親と歌人の母親、そして主人公
この三人だけがまともという書き方である
母親のまともさを描くために周囲の人間をおとしめるのか
この人は自分の立場がわかっていない
銭ゲバ弟者はネコミミツンデレショタと書いても後世の歴史にはそう残る
ハイレベルな物書きなんだから自分のペンの暴力の威力くらいはわかって欲しいもの
絶版にしたところで償えることでもないはずなんだけどな
相手は反論本を出そうにもたぶん駄作にしかならないだろうし
フィクションですと言われればそれ以上はいえない
もはや筆誅を越えて筆のリンチですな
物書きに逆らったらいけないということは後世まで記録に残しておこう

第一に「絶版になった」とか言っているが講談社文芸文庫で2007年に復刊しているのだが、この人はコネチカットにいるから知らなかったのかな。アマゾンを見れば分かるはずなのに。
 「相手は反論もできない一般人」とか昔はよく言われたが、今ではブログもあるし、まさか堤弟に反論の場がないとも言えないから「駄作にしかならない」などと妙なことを言うが、西舘好子『修羅の棲む家』はしぶとく語り継がれているぞ。要するに堤弟がそういう人間である、というのが事実だということである。(小谷野敦

 レッシングの戯曲『賢人ナータン』を読んだ。これで古典制覇に一歩近づく。
レッシングといえば『ラオコーン』が有名だが、私はこれは東京から大阪へ向かう飛行機の中で読んでいて、頭上の荷物入れがガタガタいっていたのが恐ろしくて全然頭に入らなかった。
 18世紀ドイツ文学、しかもゲーテ以前となると、もう何も知らないと言ってもいい。クライストなんかもそうだ。
 この戯曲は、1192年、イスラム教国の王サラディンが十字軍と休戦した年のエルサレムでの一日の出来事を扱っており、古典的劇である。ユダヤ人の賢者ナータンとその娘レーハ、神殿騎士の青年などが登場し、キリスト教イスラム教、ユダヤ教という三つの啓典の教えを融合させようという思想的意義をもった戯曲であると説明されている。
 しかし、そんなことはあまり興味がない私は、神殿騎士がレーハに恋をし、サラディンがそれをとりもって、どうやら結婚できそうになったかと思うや、実はレーハと神殿騎士は兄妹であるのみか、サラディンの行方不明になった弟の子らだという結末で、唖然としたのである。
 兄妹では、結婚できないではないか。ところが、神殿騎士はそれを嘆かないのである。喜んで、妹よ、なんか言うのである。
 私は訳者解説に、その点について説明があるかと思ったが、篠田英雄はそんなことは全然気にならないらしく、読者は涙するであろう、とか書いているし、シェイクスピアのようだ、なんて書いている人がいる。冗談ではない、シェイクスピアは、恋する人が妹だと分かって喜ぶ男なぞ描きはしない。

                                                                                          • -

http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news007944.html
いつもからんで申し訳ないのだが、

若者たちの海外経験への意欲はしぼんでいるようで、ある討論番組では、外務省に入省したのに海外に行きたがらない人がいるという驚くべき指摘も。

 えーとその一例だけで、「ようで」とか、そういう豪胆な結論を出しているのでしょうか。また意欲があっても資金がなければ行けないわけで、なんか時おりこういうマリー・アントワネットになるのだこの人は。
 昔であれば、外務省に入って海外へ行くとなるとお嫁さん探しをしたもので、それが恋愛結婚主流になった現代ではそう簡単に行かないとか、そういう事情もあると思うのであるが。
 あ、それで、こないだのラジオから「アーモスト大学」と言っていて、アマーストじゃないのかなあと思ったのだが、同志社ではアーモストということになっているらしい。
http://www.doshisha.ac.jp/information/history/amherst.php

 「新ゴーマニズム宣言」は、相変わらず佐藤優言論弾圧との戦い編である。最後に、佐藤が、小林よしのりが先に撃ってきた、と言っていることについて、「いつから言論界には先に批判したやつが悪いというルールができたのだ。幼児のケンカか?」(大意まとめ)とあるが、私もあれは不思議だと思っていたね。
 笙野頼子もそういうことを言うのだ。「海底八幡宮」で、名は出さずに私をさして、「何の恨みもないのに」批判してきた、と書いているのだが、笙野にとって、文学上、言論上の批判は、恨みがあるからするもの、恨みがなければしてはいけないものなのか? 未だかつて「なぜ何の恨みもないのに批判するのだ」などと言った奴はいない。佐藤も猫好きだし、笙野と気が合うんじゃないか。
 もっともよしりん、場を設けて佐藤と論争しようとしたというお人よしぶりにはちと驚いた。佐藤が正々堂々たる議論になど応じるわけがないではないか。言いたいことは言いっ放し、批判されて鬱陶しければ裏から手を回す、そういう奴なんだから。アイヌに対する差別がどうこうとよしりんにいちゃもんをつけたようだが、天皇を崇拝すること自体が差別なんだよ、佐藤学士。

                                                                                • -

週刊新潮』の掲示板で佐伯順子先生が探しものをしておられる。船越英二主演の『痴人の愛』である。なるほど、同じ木村恵吾でも最初の、京マチ子宇野重吉のはビデオになっているが、これはビデオになっていない。佐伯先生、谷崎作品の映画化の研究でもなさっているのかしらん。

 今年の二月頃に、漫画のシンポジウムが開かれて、伊藤剛マット・ソーンとともに佐伯さんが出ていたのを見て、ちと内心苦笑した。
 佐伯さんは、子供の頃全然漫画を読まなかった人なのである。売れっ子学者になってから、編集者が漫画論を書かせようとしてたくさん持ってきたのを苦労して読んでいたが、ものにはならなかったようだ。
 私くらいの世代で子供時代に漫画を読まなかったというのは、やはり良家の令嬢ないしはエリート教育の家ならではだね。田中優子も読んだことがなかったというが、これは世代が少し上だが、2000年くらいからせっせと読み始めて、結局辿り着いたのは、『カムイ伝』だったというあたり、やっぱり学生時代は「左翼」だったのかな、と思わせる。
 佐伯さんは、漫画を娯楽として享受したことは多分ないので、『リボンの騎士』なんか読んで、異性装がどうとか、卒論以下の、学生のレポートレベルの「論文」を日文研の論集に出していたっけ。
 で、以下のようなのもあるのだが、
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/month?id=10788&pg=200104
 4月12日のところに、

 『國文学』5月号、今回はメディア特集。
 佐伯順子という人が、波津彬子『天主物語』をとりあげて、少女マンガの「花と女性のコンビネーションによる視覚的相乗効果」についてやたら述べているが、なんだか三十年か四十年くらい前の古臭い少女マンガ論を読まされているようで、ああ、活字の人ってのはやっぱりこんなふうに世間とズレていくのだなあ、とシミジミ思った。
 今時の少女漫画はめったに花をしょわせたりはしない。むしろ花を描くことを恥ずかしがるマンガ家も多いくらいである。波津さんだって、『雨柳堂』の方ではそんなに画面に花を散らしたりはしていない。
 『天主物語』に花がやたらと散るのは、原作が泉鏡花であり、古臭さを演出するためなんだってことに、この佐伯ってヒト、気付いてないんだなあ。

 しかし別に「活字の人」だからじゃないのだ。わざわざ、少女マンガに意味なく花が散るなどということを議論するのも、子供時代に漫画を読んだことのない人ならでは、なのである。
 まあ、あまりいじめるのも何だが、けっこう、東大院卒というような女子には、漫画を読まないという人は多いはず。

                                                                  • -

 サタミシュウとかいう覆面SM作家が、正体は重松清じゃないかと言われているのを知った。ありゃ、そうなっているのか。
 「大物作家」「ベストセラーも出している」とかいう情報があるようだが、まあ大物というんでそういうことになっているのだろうが、私が読むと違うのだ。『私の奴隷になりなさい』の後ろの方で出てくる中年男が作者本人なのだろうが、あの理屈の捏ね方とか、『野性時代』で大沢佑香と対談した時のシルエットとか(重松とは全然違う)、どう見ても三浦俊彦芥川賞候補作家という点では大物とも言えるし、論理学関係ではベストセラーも出しているし、女子大教授だから覆面にせざるをえない。まあ本名で『のぞき学原論』出しているんだから、今さらという気もするが、・・・・・・いやこれは内部情報じゃなくて、あくまで私の推測ね。
 (小谷野敦