http://www.support-asano.net/menu/textpage/t-news4/news4-1703-1.html
 浅野健一敗訴を受けて野田正彰。

そう言っている教授たちのメンバーを見て、他の教授の名前は全然わからないけれど、遊女の研究を講義している佐伯順子の名前が載っていたから、なんじゃこらあと思ったんですね。同志社の腐れようの象徴みたいなものです。(そういう)メンバーですよ。
もちろん大学で遊女の研究をやってはいけないわけではないですけれど、少なくとも日本の社会の中で遊女というのはどういう位置に置かれていて、それが社会の人間とどう関わっているのかという研究をしていればいいけれど、彼女のやっているのは、面白おかしく、80年代の大学で軽薄短小の講義をするのがひとつのファッションみたいな、その延長になっている人が、

 それは私が精緻に批判したが、前にそういうことを言ったことがあるのかねこの人は。それに、かつて『遊女の文化史』は出したがいまはそういう講義はしていない。

 沖浦和光が死去した。沖浦は元英文学者で、のち日本の歴史・民俗の研究者になった。九年前、同氏が『「悪所」の民俗誌』(文春新書)を出した時、遊女は聖なるものかどうか論争があるが、私は聖なるものだと思いたい、今度はそういう本を書きたい、としていた。私は同氏に手紙だったかはがきだったか、便りを出して、それは間違いであるからやめてほしいと書いた。来た返事ではまだ迷っているようだったが、どうやらやめてくれたようである。
 しかし、『読書人増刊号Ponto』第三号に掲載された佐伯順子下川耿史の対談は、十六年も前から私が批判している前近代幻想に彩られたひどいものであった。佐伯も、私に批判されてからは次第にこういうことを言わなくなっていたのだが、対談などだと地金が出るらしい。前近代の自由な性が近代によってなくなってしまった式のバカげたもので、実際には現代でも十分自由だと思うのだが、こういう前近代美化は徹底的に否定したはずだが知らないのだろうか。
 その佐伯の新著『男の絆の比較文化史』(岩波書店)は、別の意味で感心しなかった。セジウィックは、ホモソーシャルにはミソジニーがついているがホモセクシャルはそうではない、と言い、だがこの両者の境界は曖昧だとしたことで、最初のテーゼはすでに崩壊している。佐伯はこの崩壊したテーゼをもとに議論しているから、最初から崩壊している。部分的に見るべきところがあるかと言うと、西洋について概観的な検討が乏しい。あと『坊っちゃん』など漱石作品における女性嫌悪は、私が『夏目漱石を江戸から読む』(中公新書)で徹底的に論じたので、参考にしなければ書けないはずだが、この人は一九九五年以降決して私の書いたものは参考文献としてあげない。個人的事情で学問をしてはいけないと思う。
小谷野敦

https://kotobank.jp/word/%E5%A3%B2%E6%98%A5-112839
 ここにある「日本大百科全書(ニッポニカ)」の「売春」の項目は割とひどい。執筆しているのは山手茂(1932- )青山薫(1962- )という社会学者だが、まず参考文献に佐伯順子『遊女の文化史』が上がっている。それでいて、滝川政次郎や私の『日本売春史』はあげていない。まあ後者はともかく、戦後のソープランドについても触れていない。ダメだなこりゃ。
小谷野敦

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私が中学二年の1976年に「みんなのうた」で放送された「冬の日の子守唄」は、イタリアの歌に仲倉重郎が自由に作詞したもので、堀江美都子が歌った。仲倉のは、子供時代を懐かしむといういささか森茉莉風のものだが、原曲はグアルティエロ・マルゴーニの曲で、「io con chi sto?」といい、「私は誰と一緒?」つまり「今は私は一人」という、大人の失恋の歌である。

 歌詞はここ。
http://www.filastrocche.it/contenuti/io-con-chi-sto/
 どうも、同棲くらいしていた男女のうち、男が別の女に走ったという歌らしいが、そういうのを子供に歌わせるところが西洋人である。

 佐伯さんのラジオ番組は昨日で最終回だった。やっとこういう実証的なところへたどりついたかと感慨があるが、「読売新聞」で見た文章を「徳田秋江という人が」と、まるで近松秋江であることを言わずに紹介したり、危なっかしいところ、いちいち明治の人を「川上貞奴さん」とかさんづけするのはもう昔から。
 しかし結論は変であった。前から、男女平等は明治に退化したとか言っており、これは実は大日本帝国憲法発布で女性参政権運動なんか頓挫してしまうので、その限りでは正しいのだが、いろいろ変で、要するに明治大正期の働く女性の話なのだが、これは往々にして結婚前のことである。また農業従事者のことも言っていたが、これは要するに自宅で、子供は畑や田圃につれていけるわけ。商家の奥さんも家でする。それと、通勤してする仕事とは分けて考えないと、おかしなことになる。
 どうも悪しきフェミニズムの影響で、外で働くことがいいことだとア・プリオリに決めつけているのだが、それは「能力次第」である、という視点がない。まあ、もしあったらNHKで起用しないだろうが。能力のない女は育児をして、能力のある人は仕事をして、育児と両立できたらいい、というところである。そうでないと、無能な遺伝子が残ることになるから。
 それと日本の女性解放度が先進国に比べて低いみたいな話をうのみにしているが、これはGNPとか、人口密度とも関係するので、それをぬかした順位など持ち出してもしょうがないのである。フランスで、二時間かけて満員電車で通勤するなんてことはないのである。

 ミネルヴァ書房の『究(きわめる)』(しかしこれ、検索しづらいんだよね)の三月号に、連載している佐伯順子さんの「教授夫(人)」というエッセイが載っていた。なんでも、最近観た舞台らしいが、脇役として、中学生の頃から教授夫人になることを夢みてそれを実現した女が出てきて、それは揶揄されているからいいのだが、同時期仕事で読んだ長篇らしき小説のヒロインが教授夫人で、最後は夫を若い女にとられ、「これであの女も教授夫人の地位を手に入れたのね」とか言うらしく、そんなことをアイデンティティにしていたのか、と痛罵するという内容。しかしこれ、いずれも作品名が書いてない。後者は作品自体を貶しているらしいからか。知っている人は教えてほしい。後者は『ばらの騎士』みたいな筋だが、円地文子の『私も燃えている』もそんな感じか。
 で、「教授夫」になりたいという男が出てくる小説や戯曲はない、と言う。まあ実際「三島由紀夫夫人」とはいうが、「林芙美子夫」という成語はなくて、私も時おり不便をしたのだが、西洋なんか、今はそういうことはないだろうが、1970年代には「Mrs. Bil Clinton」でクリントン夫人を意味したくらいだからもっとすごい。そういえばこないだ観たサッチャーの映画で、「男爵夫人」と字幕があったように思うが、あれは「女男爵」が正しい。
 なんだか、「外交官配偶者」を過去の履歴としている瀬々敦子さんを思い出すのだが、これは職業としてあるらしく、女外交官の夫でもいいわけだから、「教授配偶者」でもいいのだが、いずれにせよ、今どき、教授夫人になりたいなどと思う女は現実にはめったにいなくて、
http://komachi.yomiuri.co.jp/t/2009/0913/262547.htm
 ここでも結構バカにされている。しかし佐伯さんいったいなんでそうムキになって怒っているのかという気がしないでもない。 

http://koushikai646.blog89.fc2.com/blog-entry-36.html 

 「会員」とあるが、いったいこの弘志会とは何ぞや、と思って検索したがどうも分からない。ブログの過去記事を見て行くと、どうも右翼団体のように思える。右翼といっても街宣右翼じゃなくて『正論』に書く人たち、みたいな感じ。
 SJさんは創価学会系左翼のW教授の引きでD大学教授になったはずで、そこのメディア・コミュニケーション研究センター所長がW、SJさんは副所長だったはずだが、見たらこのセンターの活動は2006年から停止しているらしい。何があったか。

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http://news.nifty.com/cs/sports/fightdetail/jitsuwa-20111005-1519/1.htm
稀勢の里大関昇進を阻んだのは貴乃花親方で、それは稀勢の親方の鳴戸に恨みがあるからという『週刊実話』のトバシ記事。三場所の勝ち数30で大関になれるわけないだろうが。ダブル昇進の際は片方は甘くなるって、それはどのダブル昇進の時の誰のことかな。94年の武蔵丸貴ノ浪、これは武蔵優勝、浪は三場所で35勝。その前は77年の魁傑と若三杉(二代若乃花)だが、魁傑は返り咲きで36勝、若三杉は33勝だ。その前は72年の貴ノ花と輪島、輪島は8勝の時があったが合計では33勝、貴ノ花は33勝だ。いちばん甘かった大関昇進は二代目増位山の31勝で、これは当時貴ノ花が一人大関だったから。
 30勝で大関なんてありえない。いい加減な記事だ。

 ヨコタ村上『金髪神話の研究』、私は読んでいないが、アマゾンレビューより。

例えば、第十三章「ロシアのブロンド女たち」の書き出しは以下の通りです。
 「今日の日本人(男性)にとっての『金髪女性』は、まず誰よりもロシアン・パブで働くロシア人女性のことかもしれない。」(171頁)
 さらに著者は「どこの盛り場でも見られるようになった『金髪』ロシア人ホステスが、今日における日本人の、金髪白人女性像の典型を生みだしてきたのだとすれば…」(182頁)と筆を進めます。これは牽強付会のそしりを免れないと思います。ロシアン・パブに足を踏み入れたことがある読者がどれほどいるというのでしょう。
 著者は1994年の雑誌「FLASH」の記事に首都圏に約300人のロシア人ダンサーがいるとあることを手掛かりにしていますが、首都圏にいる300人のロシア人ダンサーと一般の日本人男性とが接する機会など、たかが知れています。現在の日本人の金髪白人女性像を形づくっているのはやはり多くの人が見る銀幕の中の女優たちだと考えるほうが自然でしょう。

 ホントーに、こういう思いこみが激しいのだよなあ、この人は。
 まあ、ことのついでに言っておくが、私が『日本文化論のインチキ』で佐伯さんの『愛と性の文化史』について、おかしなところは直されている、と書いたのに対して、直っていない、と指摘するブログがあったが、私はあの本はちゃんと読んでいない。なぜなら、ちゃんと読んだらまた批判しなければならなくなるかもしれないからである。案の定そうだったようで、世の中には、批判したくないからあえて読まない、ということもあるのである。