「翻訳学」は存在しない

 12月に徳島の文書館で先輩の杉田英明さんと公開対談をする予定だったのだが、コロナで行けなくなり中止になった。

syougai.tokushima-ec.ed.jp 明治の翻訳家・井上勤についての話だったが、あまり井上について訳書以外のことは分かっておらず、どうなるのかとは思っていたが、私は「翻訳学」というのは存在しないという話をするつもりでいた。

 佐藤ロスベアグ・ナナという学者が盛んに、西洋にはトランスレーション・スタディーズというのが定着しつつあるが日本ではまだであると言っているのだが、それらを見てみても、単なる翻訳という技術とその周辺、つまり翻訳家列伝とかそういうものでしかなく、単独の「学」になっているとは思えない。教育学とか経営学とか語学とか、もともとは技術の習得だったものがいつしか学になるということはあるが、私は教育学とかいうのが学問かどうか疑わしいと思っている。

 それと嫌なのは、翻訳というのは文化の越境である、それは可能か不可能か、みたいな評論を展開する人がいることで、こういう人は本当は戦争はいけないとか異文化に寛容に、みたいな政治的プロパガンダを、学問の名を借りておこないたいだけなのである。翻訳は「フィネガンズ・ウェイク」みたいに不可能なものから、普通にできるものまでいろいろある、というだけのことである。そしておおむね、生成文法を参照していない。

 日本通訳翻訳学会というのがあるが、これはもとは日本通訳学会だったもので、通訳と翻訳は全然違う営みだし、通訳学会は通訳の技術的問題の情報交換の場として存在したものである。

小谷野敦

栃野の世界(3)

結果として、栃野へのあからさまないじめはあまりなくなったが、栃野は私と大川ばかり相手にするようになり、放課後、駅まで三人で歩くということもよくあった。しかし栃野は、決してつきあって楽しい男ではなかった。
 今でも十条に朝鮮学校があり、私らの学校でも「チョン」「チョンコ」などと差別的に言う者はいたが、まれで、悪ぶって言っているのだが、栃野はどうも本気で朝鮮人を差別していて、それを口にするのである。私はどういう教育を受けてきたらこうなるのかと驚いたが、ある時放課後、駅への道で栃野と二人になり、栃野があまりに朝鮮人差別を口にするから、
 「なんでそういう挑戦的な言い方をするんだよ」
 と言ったことがある。すると栃野は、それを「朝鮮的」ととったらしく、物凄い勢いで、 
 「どういうことだよ! 俺のどこが”朝鮮的”なんだよ!」
 とどなり始めた。私はげんなりしながら、そうではなく、「挑戦」的と言ったのだ、と説明したら、理解した栃野は、突如にこやかな顔になって、あ、そうか、そっちの挑戦か、などと言い出したから、私はますます嫌になった。
 あるいは、海堂高校の裏手に、保伝高校という、こちらは進学校ではない学校があった。私と栃野と大川で下校する途中、あちらからやってきた中学生のような子供が、保伝高校ってどこですか、と訊いてきた。教えてやって、彼が行ってしまってから、栃野は妙にニコニコして、
 「俺たち海堂だろ、それで保伝について聞くってのはさ」
 とかごちゃごちゃ言うのだが、それは俺たちのほうが偏差値が高いということで優越感を覚えたという意味でなのだが、私も大川も憮然として、返す言葉もなかった。
 あと、大川の他クラスの友達のさらなる知り合いで、私も初対面の生徒が一緒になったことがあったが、栃野は何か言葉のやりとりのあと、にたにた笑いながら彼に土を投げつけたことがあり、彼は、
 「何こいつ、初めて会ったやつに土投げるとか、何なの?」
 と薄気味悪がっていた。
 そんなやつだからいじめられたんだ、と言えば言えるが、とうていそれであの陰湿ないじめは説明できるものではなかった。特に窪木は、あとで気づいたが、ほかの悪童連は、たいていは教師に叱られるような場面があったのに、窪木にはそれがなく、教師たちの中には窪木がいじめの親玉だと気づいていない者もいたようだし、教師がいる前では決して変なことは口にしなかった。
 三年生になると、全クラスあげての教師いじめが始まった。その教師は日本史の、四十代くらいの太った教員だったが、いかにも全共闘運動の生き残りといった感じで、熱をこめて歴史を語った。それが「シラケ世代」のいじめ心を刺激したらしく、次第に雰囲気が悪化し、ついにはその教師の来る前に全生徒が教室の外へ出てしまうなどという事件もあった。窪木と村川が中心となって扇動し、圧力をかけてのことだったが、私一人が同調せず教室内に残っていた。しまいには授業中に生徒の何人かが教員を糾弾するという事件すら起こった。何ゆえの糾弾か、それはまったく明らかにされなかった。ただ気に食わないというだけだった。窪木らの一派は、単に人をいじめることを面白がっていたが、中には植木という生徒のように、本気になって「あなたは自信過剰なんじゃないですか」などと教師を糾弾するのもいて、あれは謎だった。
 この状況を憂える生徒もいて、元窪木グループだった浦野などは、教室から離れたところで担任に、みんなふざけてやってるから嫌なんですよ、と話していて、私が後ろを通りかかるとビクっとして、ああ藤井か、と、窪木の仲間でないのを確認して安心するみたいな独裁体制があった。
 高校生当時、本を読んでいて「偽善」「偽善者」という言葉が出てくると、周囲に偽善者がいないためイメージがつかめず、なぜ彼らが偽善者を憎むのかも分からないほどに偽悪や露悪がはびこっていた。卒業して予備校に通うようになったら、女子学生はいるし、天国のように思ったものだ。私は、小説でも漫画でも映画でも、子供たちが結束して大人と戦うみたいなもの、子供たちの連帯を美化するようなものが嫌いである。こんな経験をしたら当然であろう。
 大学一年の時、同窓会があって出かけて行ったが、当然というか、栃野と窪木は来なかった。卒業後、大川などと会う機会もあったが、ほどなく疎遠になってしまった。最後に会った時だったろうか、私が、ギュンター・グラス原作の『ブリキの太鼓』がそのころ映画になっていたので、その話をしたら、「それ作った人、うちの大学へ来たよ」と言うから、え? と思ったら、非行少年の映画「ブリキの勲章」と間違えていたのだった。
 四十を過ぎたころ、インターネットで、九州のほうの大学教員で、窪木と同姓同名の人間がいたが、英国の労働運動などの研究者だったから、まさかあの窪木が、と思い同名異人だろうと考えてブログに書いたら手紙が来て、それは同じ窪木で、今も周囲の人をいじめている、と書いてあった。
 もっと驚いたのは、窪木の父親が、国立大学の教授をしていたその筋では知られた教育学者だったことで、それで教員が窪木には甘かったのかと思ったほどだ。教育学者の子供がいじめっ子になりがちだというのは、人権派の学者がセクハラをしがちだというのと同じ構造だろうか。

栃野の世界(2)

 ある意味で、クラスの大部分の生徒からハブにされた栃野は、私や大川、あと生徒会長に立候補して当選してしまった清見原などと話すようになった。清見原というのは、それほどの人格者というわけではないが、私や栃野と一緒にいても、窪木から狙われないというそういう位置どりのできる男だった。ほかにもそういう、いじめっ子にもいじめられっ子にもならない、という立ち位置を確保できる生徒というのはいたが、大人になっても、そういうことのできる人というのがいて、今なお、とても真似できない、と感じる。
 大江健三郎は、ヴァルネラビリティという言葉を「いじめられやすさ」と訳したが、ヴァルネラブルというのは弱さ、脆弱さで、私ならともかく栃野には当てはまらない。栃野は、現代の言葉を使うなら、自分が陽キャだと信じているが実はそうではない、という、自己認識と他人からの認識のずれた男だった。
 この学校では、二年生になる段階で文系と理系を分けた上、文系は国立を目ざす文Aと、私立へ行く文Bに分けられるのだが、当時クラスで十九番などという成績だった私は、担任から文Bを勧められたが、文Aを希望した。秋になって、生徒が一人一人、担任に呼び出されてこの振り分けの相談をした。私が呼ばれていた日、小さく丸められた紙が誰か生徒から渡された。書いてあったのは栃野の悪口で、「トチノ。誰からも相手にされず、藤井とか大川とか気の小さいやつに相手してもらって自慰している」と書いてあった。私はむかっとして、その紙を捨てた。
 担任は体育準備室という、本館とは別に建てられた、当時はまだ小さい建物にいたが、私はそのむかっ腹を抱えて、放課後そこへ行き、担任の前に座った。担任は私に、私立進学コースへ行くよう勧めたが、私は国立へ行きたいと言い張った。ちぐはぐなやり取りが続き、私はそもそも、一年生の秋ごろにどこの大学へ行くか決めるなどということをバカバカしく思っていたから、その気持ちの通りに返答していた。すると担任が突然、
 「お前は誰に向かって話をしとるんだ!」
 と、腹の底からの怒鳴り声をあげた。十五歳の私はびくり、としてそのまま背中を椅子の背に張り付かせた。
 担任は、私の態度が悪い、なっていないということを二、三分怒鳴り続け、
 「だからお前は嫌われるんだ」
 と言った。
 「改めえ!」
 と言って説教は終わった。ふらふらと外へ出た私は、旧式の便所へ入って、気を落ちつけようとしたが、鼻血が出てきて、涙が滂沱と流れてきた。
 怒鳴られているところを誰かに見られなかったかと恐れたが、並川が、「お前、昨日大谷に怒鳴られてなかった?」と訊いてきたから、ぎくっとした私は「なんか、態度が悪いって言われて」と言って済ませた。あとで考えると、特に隠すようなことはなかったのだが。
 そのころ、太宰治を読んでいた私は、「正義と微笑」という中編の中に、聖書から引かれた「汝ら断食する時かの偽善者のごとく悲しき面容すな」という言葉をもとにした「微笑もて正義をなせ」という言葉をもって、自分を叱咤しようとした。
 栃野へのいじめに抵抗する自分を美化し、周囲への配慮を怠っていた私は、これまでもそのように傲慢であったという趣旨の作文をレポート用紙十枚くらいに書いて、中学時代の友人の一人に渡したが、二週間ほどして、彼は何も言わずにそれを返してきた。今ではこの「微笑もて正義をなせ」自体が究極の偽善だと考えている。
 次の体育の時間に「跳び箱」があり、私は難儀したが五段くらいのを飛べた。すると担任の大谷が大げさに、「飛べたよ!飛べたよ!」と言って笑顔でやってきたのは、関係が気まずくなっているのを気にしたのだろう。 
 中学生の時に、男と女で一人称が違うのはおかしい、とか、僕というのはしもべという身分制的な意味だという理由で、私の一人称は「わたし」になっていたが、高校でもそれを使っていた。もっとも「わたし」と言う生徒はほかにもいた。「僕」などと生徒同士で言うのは少なく、「俺」がほとんどだったから、私も「俺」を使っていたと思う。
 それからほどなく、父兄面談があり、母が学校へ出かけることになった。担任に会うわけだから、きっと私の態度が悪いと言われるだろうと怯えた私は、「体育の先生だから私のことはよく思ってないよ」などと言って予防線を張ったのだが、夕方になって母は「大恥かいちゃった」とプンプン怒りながら帰ってきたから、私は青ざめた。やはり、「家でもあんな感じなんですか」などと嫌味を言われたらしい。母は、
 「淳ってお父さんと普通に会話しないでしょう。そこがおかしいんじゃない?」
 などと言っていたが、私と父はそりが合わないのである。それから少しの間、母は私の言葉尻を捕えて、そういう言い方がいけないのよ、と言い言いした。
 二年生になってクラス替えがあったが、その結果を見て私は驚いた。私と大川が一緒なのはいいとして、窪木も栃野もいたからで、いじめっ子といじめられっ子を同じクラスにしたのは、担任に悪意があったとしか思えない。ところで清見原が生徒会長になったのは一年の終わりの選挙の時なのだが、私らのクラスから悪ガキ風のが三人、まるでおふざけのように立候補して、ふざけた演説を行ったあげく、本来は二年生が当選すべき生徒会長と二人の副会長に一年生が当選してしまったという事件があったのだ。その一年後くらいにマンザイ・ブームが起こり、ビートたけしの毒舌ギャグが受けるわけで、シラケ世代を見事に体現していた。その後のことを考えると、私は三年間、一番ふざけたクラスに所属するという不運を抱えていたことになるが、そういう側面を主導したのが窪木だったとは言えるだろう。
 一学期が始まってほどなく、体育の授業で野球のまねごとをしたことがあった。私は運動が苦手で、野球にも興味がなかったが、バッターになったら球を当てることができたので、一塁へ走った。すると敵方の窪木が突然目の前に現れて、「お前、走っちゃいけねえんだよ、走っちゃいけねえんだよ」と顔をしかめながら言ったから、何だろうと思って呆然としていたら、アウトにされてしまった。しかしこういうことをすると、窪木は「悪の帝王」などと言われて人気が出たのである。
 窪木は、「真面目なことを言ってはいけない」という美学を持つ連中の人心を収攬するのが巧みで、二年生になってもたちまち窪木グループのようなものを作り、いじめを開始した。もっともこの時窪木グループにいた一人は、行方という真面目な生徒で、のちに窪木からは離れた。
 七七年結成だから、まだ私らが中学生のころに、黒木真由美、石江理世、目黒ひとみという三人の歌手が、「ギャル」というグループを作って活動していたが、私らが二年生の七九年に解散した。私は窪木が、誰にともなく、
 「『ギャル』ってよお、売れない歌手三人が集まっただけじゃん」
 と二回くらい大きな声で言っていたのを覚えている。当時の私ら男子高校生の世界では、まじめな話がタブーで、この手の藝能ネタを、人をバカにしつつ言うのが定番だったのだが、しかしこれは極端にバカバカしすぎて、窪木としては外した発言だったと思う。
 二年と三年の時の担任は、國學院の大学院で中古国文学を専攻していた的部という人で、現代国語の担当だったから、私には助かった。私らが卒業する時、中国地方の女子大へ赴任していった。
 二年になって同じクラスになった、村川という体が大きく色の白い男がいた。ある時栃野が、
 「おれ窪木より村川のほうが嫌だよ、陰険で」
 と言っていたから、栃野いじめもしていたようだが、窪木とは色合いが違っていた。窪木には完全に善良なところはなく、まったき悪としてふるまっていたが、村川は割と普通であることもあった。
 ある時村川は、新書版ペーパーバックの本の最後に載っている既刊書一覧から、『労働組合入門』といった題の本をさして、
 「これさ、うちの父ちゃんなんだ」
 と言った。脇にいた友達が、
 「へー、お前の父ちゃん、作家なの」
 「バカ、作家じゃなくても本書くことあるだろ」
 などと話していたのを聞いて、私は割と素直に感心したのだが、何十年もたってネットで調べてみると、ある全国労働組織の偉い人だった。
 栃野の事件と関係あるのか、二年になってから、学級委員を投票で選ぶということがなくなり、担任が指名してやらせるようになったのだが、なぜかいつも笹井という、かなりハンサムな男が委員をやっていた。笹井も不思議な生徒で、成績は中程度だが、いじめる側ともいじめられる側とも深く関わらない男で、委員の仕事もそつなくこなしていたが、担任になぜそれが分かったのかは知らない。
 栃野は、「クラス替えデビュー」とでもいうのか、いじめの過去はなかったかのように振舞おうとしていたが、五月か六月ころには、窪木や村川を中心に、いじめられっ子の栃野の位置は確定しつつあった。
 私は一年生の時は、中高一貫校に公立中学から入って授業についていけない劣等生で、両親などは心配して、和光大学のような人間性重視の大学にでも入れるかなどと話していたようだが、一年の時は小説ばかり耽読する文学少年だったのが、二年になって、放課後に予備校に通い、勉強するようになった。その結果、実力テストで学年一位になり、いじめから抜け出すことになったのであった。
 八月には修学旅行で北海道へ七日間行ったが、飛行機で行くか汽車で行くかについて父兄にアンケートをとったが、五月末にシカゴで飛行機の墜落事故があったためか、汽車ということになった。旅行のためにグループを作ることになり、私と大川、清見原に、やはり一年の時同じクラスだった、写真を趣味にしていて賞をとったりしていた背の高い岡村が集まると、そこしか入れてもらえないだろうという感じで栃野も入ってきた。
 その夏は、NHKで、私が高校へ入った時に定期放送が終わった少年ドラマシリーズの一つとして、筒井康隆原作の『七瀬ふたたび』を多岐川裕美主演で放送していたのを途中で、私は出かけ、寝台列車東北線を北上し、青函連絡船に乗ったらみごとに船酔いし、そこへイカ飯など出たから余計ひどくなった。
 トラピスト修道院から、札幌へ行き、ラーメンを食べたらうまかった。ここで一泊、そのあと根釧原野のじゃが芋農場へグループごとに分かれて分宿し、芋掘りを手伝った。その前のホテルで、グループ内でトランプをやって負けた私が「罰ゲーム」として菅原という男のもじゃもじゃ頭に手を置いて「君って頭でかいなあ」と言ったら、菅原にコブラツイストをかけられるという事件があり、芋畑に集まった連中が「藤井ってさあ」と私がつば広の帽子をかぶって芋堀りをしているのに気づかずに話し始めた。笹井が、「いや、藤井ってのは、あれは分からないでやってるから」と擁護していた。翌日、バスに乗ってそのことを思い出したら涙が出てきた。しかし私へのいじめは、二学期になって成績が安定して上位になったことで、なくなった。
 だが旅行中、ホテルに泊まったある日、他グループの悪童連が、夜中に栃野を襲撃するという計画があり、大川や私にそれが前もって知らされていた。大川と、ホントにやるんだろうか、などと懸念しつつ話していたら、本当に夜中に襲撃があった。といっても怪我をするほどのことはなかった。
 どうやら担任の的部は、この事件まで、栃野がいじめに逢っていることは知らなかったらしく、生徒らに、
 「なに? 内部抗争とかあるの?」
 などと訊いていた。
 二学期が始まり、私は男子校の、女といえば食堂のおばさんと保健室のおばさんしかいない環境からの逃避のように、再放送の「キャンディ💛キャンディ」や、高畑勲の「赤毛のアン」に夢中になっていた。その間も、栃野へのいじめはエスカレートしていたらしく、ある朝、登校してきた栃野が、窪木に足を蹴られて、帰ってしまった、といったうわさが流れた。やってきた担任は、
 「お前ら、必要以上に栃野に構うな」
 と言い、
 「明け方の自殺とかいうこともあるし・・・」
 と付け加えた。その日の学級日誌には「栃野が自殺するそうだ」と書かれていた。
 三年生の時だったか、他のクラスで自殺者が出た。ふだん教えていない数学の教師がそれを伝えに来て、何か口ごもったのを私が笑ったら、そばにいた浦野という生徒が、「笑いごとじゃないよ、自殺だよ」と言った。この浦野というのは二年から一緒になったのだが、はじめ窪木がどういう男か知らず、窪木のグループに入っていたが、善良で明るい男だったから、その後窪木からは離れた。とはいえ私は内心で、何が笑いごとじゃないだ、とせせら笑った。当時は日本史の教師いじめをやっていたが、栃野いじめをあれだけやっているクラスでそんなことを言うのが笑止千万だったからだ。
 ずっとあと、四十歳くらいになって、高校時代いじめに逢っていたことを言うと、中に、なぜ登校拒否にならなかったのかと言う人がいたが、私も栃野も、そういうことはしなかった。やはり進学校だから、そういう選択肢がなかったのか。授業をサボる、という行為もなされなかった。

(つづく)

栃野の世界(1)

(「ミゼラブル・ハイスクール1978」の一部を書き直したもの)

 JR山手線の新大久保駅と中央線大久保駅の間は「コリアン街」になっている。この二つの駅は、新宿駅から中央線と山手線が分かれるために隣接している二つの駅である。今では、東アジア街ともいうべき雑然とした街になっているようだ。そしてどうやらここへ「ヘイトスピーチ」の人たちが来て騒音を流したりするようだが、もちろん私は聞いたことがない。
 一九七八年から三年間、私はその新大久保の駅で降りて、大久保駅とは反対側へ十分ほど歩いたところにある海堂高校という「二流の進学校」へ通っていた。名前からも分かるとおり、かつての海軍学校の流れをくむ高校で、江藤淳の一族が経営しており、江藤も理事を務めていたことがある。
 私は中学生の時、おそらく受験勉強の重圧から心理的に逃れるためだろう、延々と漫画を描いており、勉強もしてはいたが、第一志望の埼玉県立高校に落ちて、この新宿からほど近い二流進学校へ来たのであった。今でこそ東大進学者数もだいぶ増えて、いっぱしの進学校のように思われているが、当時は東大合格者は現役・浪人あわせて五人程度だった。男子校であり、来歴からだろうか、体育教師が妙な権力を持っていて、朝方。校門のところで竹刀片手に、遅刻してくる生徒を待ち構えていた。私もよく遅刻したが、私の場合は、埼玉県から電車を乗り継いで一時間半もかかり、ラッシュアワーだから、当時日本でいちばん混むと言われた赤羽線を使う時などは、途中で圧迫のため窓ガラスが割れるといったありさまで、大人になってこんな通勤を何十年も続けることを考えたらぞっとするほどだった。新大久保駅からは、大久保の逆側に大通りを歩いて、横道へ入り、かたわらにロッテの工場があるためガムの臭いがする中をしばらく歩くのである。私はこのガムの臭いのために、卒業してからもしばらくはガムというものを噛めなかった。
 時間ぎりぎりに登校してくる生徒は多いから、そのうち道がびっちりになった上、前のほうから、締め切られそうだという空気が流れてくると、大勢の生徒が水に追われる鼠みたいに小走りになってざざざざっと前へ動き始める。すべて黒い制服の男子だから実に嫌なものだ。
 そして、あれは思えば何だかお約束のように、七、八人くらいが遅刻者として取り残される。その十五年後くらいに、ガラガラっと閉められた校門に女子生徒がはさまれて死ぬという事件があった。竹刀を持った体育教師二人くらいがいつもいて、前庭のゴミ拾いをさせるのである。あれは一年生の時だったろう、私がその一人になり、一回りゴミ拾いをして戻ってきて、教師の前に少し離れて立つと、
 「やってこい!」
 と言うのである。はて、今終わって帰ってきたのに、やってこい、とは? と私が狼狽していると、
 「ここへ来いってんだよ」
 と言う。それを「やってこい」と言う感覚が分からなかったので、慌てて近づいていくと、
 「お前は、あれだろう、朝起きておはようございますとか、そういうことがちゃんと言えてないだろう」
 そう言われて、私はぐっと胸に応えるものがあった。中学生の時から、軽い反抗期でもあったろうか、確かにその手のあいさつはしなくなっていた。というか、当時の私は話し言葉の混乱期にあった。
 うちの両親は茨城県結城地方の出身で、私も七歳までそちらに住んでいたのだが、母が努力して標準語を使っていたため、私は方言使いにはなれなかった。アクセントは関東のものだが、方言でしゃべることができない。また性格的に、汚い言葉は使えなかったが、たとえば「おやじ」とか「おふくろ」とかいう言葉を本当に使う人がいるのか疑わしいくらいだが、そういう言葉も使えないし、語尾もどうしていいか分からなくなった。結局高校から大学にかけて、私は落語を聴いてしゃべり方を習い直すことになったが、それから今日まで、お前のしゃべり方は演劇みたいだと言われ続けている。
 海堂学園は中高一貫校で、のちに私は中学から行ったと誤解されたこともあったが、地元の公立中学から行っている。だから、入学した時に知り合いなど一人もいなかった。そんなことは当然だと思っていたら、今の妻は、愛知県の某市で国立の中学校から有数の県立進学校へ進んだ人だから、知り合いなんかいなかった、と話したら、かわいそう、と言って泣き出したから驚いた。
 あとになって学者の世界に入ってみると、中学から私立というような人がざらにいたから、ああこれは最初から身分が違うんだなと思わざるを得なかった。
 初めての電車通学で、男子校、東京という条件下で、私はかなり暗い気分だった上、中高一貫校だから、いきなり勉強も知らないところから始まるありさまで、ついていけなかった。
このような私が、いじめの恰好の標的になったのも当然のなりゆきだろう。以前この高校でのいじめについて書いた時、大したことがないという反応があったが、それは暴力を伴っていなかったからだろう。もっとも、暴力を伴わないいじめには、独特の陰湿さがある、と私は思う。もちろん暴力は、ないほうがいい。
 私が二年生になる時にクラス替えがあり、三年生になる時はなかったが、その三年間、同じクラスで、いじめの親玉だったのが窪木という男だった。窪木は高校から入ってきた口で、家は横浜にあったらしく、その巧みな人心収攬術で、四人ほどの仲間を作り、休み時間に私が座っている机の周りに集まって、あれこれといたぶり口を利き始めた。それがどのようにして始まったかというのは覚えていないのだが、何かじめじめした嫌なことを言うのであった。私は今もって、どういう成育歴を持つとこのような人間が出来上がるのか分からない。
 私は、友達を作る方法というのがよく分からなかったのだが、二人の、名前に「大」がつく同級生が声をかけてくれ、休み時間には前庭へ行ってキャッチボールなどするようになった。二人とも中学からの進学組で、概して中学からの組は性質が温和で、高校から来たほうは荒々しかった。そのうち一人の大川は、三年間通じての親友みたいな関係にあったが、卒業後、疎遠になった。
 窪木グループによるいじめは、翌年の夏休みまで続いた。それがなくなったのは、私の成績が良くなったからで、二年の一学期の実力テストでは学年で一位になった。ただし夏に北海道へ修学旅行に行ったのは、進学校だから三年生で修学旅行をさせられないからだが、この時はまだ窪木らによるいじめの残滓はあった。
 一学期と二学期に二回、三学期に一回の定期試験があり、「考査」と呼ばれていたが、一年一学期の中間テストでクラスで一位だったのが、先の大川だった。だが二年、三年となるにつれ、私の成績が大川を抜いて、卒業後は大川は早慶以下の私立大へ進んだのが、疎遠になった一因だったろう。
 一年の時のクラス担任は、大谷という体育教師だったのも、体育の苦手な私の不運だった。ところがそのうち、別の「いじめ」が起きていることが分かった。栃野一(とちにはじめ)という生徒で、目玉がぎょろりとして眼鏡をかけており、陽気な男という印象だったが、山岳部へ入っていて、五月か六月ころだったか、関節炎のために学校を休む、ということがあった。ところが、そのことを伝えた担任は、変な顔つきで笑いながら、
 「栃野か、あいつは、顔が悪いんじゃないか」
 と言ったのである。私は、教師がそんなことを言うことに仰天したが、この学校ではそういうことがあったのである。私は家へ帰って母にこの話をしたら、母も驚いていた。
 だがそれからほどなく、やはり栃野が休みの日に、朝方から栃野の机の、上板が丸ごと剥がされるという事件があった。生徒たちはざわついていたが、やってきた担任はそれを見て、また苦笑みたいな表情をして、
 「なんだ、それァ」
 と言っただけだったのである。
 実際この担任は少し頭が弱かったのじゃないかと思うのだが、見た目がヤクザ風で、自分で、ある時白っぽい背広を着てどこかの店へ入ろうとしたら、店員が、あっ、あっ、そういう関係の方は、と言ったという話を無邪気にしていた。
 あるいはやはり六月ころ、教室の外に栗の木があったらしく、その実の、精液のような臭いが漂ってきていた。担任の大谷は、
 「あのこれは・・・まあ懐かしいような臭いだなあ」
 などと言って笑いを誘っていた。
 その当座、栃野へのいじめがどんな風だったのか、私は知らない。もっぱらその当時は、私が窪木にいじめられている、というのが一番目立っていただろう。夏休みになると、長野県にある学園所有の山の家みたいなところへ合宿に行った。この時、風呂に入りに行くと、並川という生徒が、
 「あれ? お前藤井? お前なんで窪木にいじめられてるの?」
 などと訊いてきた。こっちが訊きたいよと思った。
 夏休みはさらに補習の授業があって、二週間ほど学校へ通った記憶がある。
 それでも、日曜になると中学時代の友達が五人ほどで集まるようになって、私の孤独は緩和された。通学時間には大江健三郎の本に読みふけって、そこに描かれた人間のトゲトゲしい関係が、今の自分の状況をみごとに表現していると思っていた。
 ところが夏休み明けになって、夏休みの間に何かあったのか、突如、クラス全体による栃野いじめが始まったのである。発端は二学期の学級委員選挙で、いじめとして栃野に投票するよう、窪木のグループがあちこちで策動していた。栃野もその妙な雰囲気には気づいたようで、選挙の結果、栃野が委員に選ばれると、憤然として担任に言いつけに行った。担任がすぐやってきて、
 「何だこれは!」
 と怒鳴りつけ、
 「まあ何も栃野君が学級委員にふさわしくないと言うんじゃないが・・・」
 と語尾を濁しつつ、
 「だが見てりゃ分かるんだよ!」
 と言って、選挙のやり直しをさせた。だが、再び栃野が選ばれ、担任もどうすることもできず、去っていった。
 私と大川は、むろん栃野に投票はしなかった。そしてこの「集団いじめ」を憂えた。坂本という、丸刈りで野球をやっている生徒がいて、あいつは栃野には入れなかったんじゃないか、と大川と話して、「誰に投票した?」と訊きに行ったら、「トチノット」と答えた。
 いったいなぜ、栃野がいじめの標的になったのか、当初私は分からなかった。私などは、小学生の時からよくいじめられていたし、体育が苦手で、腕っぷしが強いわけではなく、埼玉県から来ていて、バカ話にうまく加われず、場違いなことを言ってしまう子供だったから分かる。栃野は割と陽気で、普通に他の生徒に溶け込んでいるように見えた。調子に乗りやすいところはあった。

(つづく)

学問のオリジナリティ

学問のオリジナリティということは以前からしばしば問題になる。歴史学でも文学でも、新しい資料を発見してきたらそれはオリジナルだ。だが誰もが新しい資料を発見はできない。

 そこで、明治大正期の本を見て、こりゃまだ誰も言ってない、といって発表するにあたり、最近のように国会図書館デジタルで見られるようになると、それで見たんだろうというんで値打ちが下がるということが起きているんじゃないか。厳密にいえば国会図書館にある以上、行けば見られるんだから誰も新発見とは言わない。ただ気分として、である。

 あるのは分かっているが誰もそれを論文にしたことがない、というあたりが穏当でいいので、まあそのあたりでよしとするのが一般的である。

玉三郎×三浦雅士

1995年に、ETV特集坂東玉三郎が取り上げられ、間に玉三郎三浦雅士の対談があった。双方40代であった。私にはこの双方意気投合という風の対談が難解で分からず、当時佐伯順子さんに見てもらったら、佐伯さんは分かったらしい。今回DVDに焼いたので妻に見てもらったら、ものすごく面白いと言う。舞踊の話で、私は舞踊オンチなので分からないのである。私は人間の体が舞踊的に動くということへの感性が欠如しているのではなかろうか。

 今回、妻に説明してもらって分かったのは、これが舞踊家元制度への批判であるということであった。私は家元の芸というのを碌に見ていないから分からないが、家元の舞踊というのは普遍性がないものらしい。

 もう一つ、「鷺娘」で、色々な女の顔が凝縮されるというところ。これは大島真寿美「渦」にもそんなところがあったが、それでは男の顔というのはないのか、と私は思う。男というのは日本の古典藝能では、武人としてばかり表象される。女の顔というのはおおむね恋する女であるが、恋する男の表象というのが、舞踊では保名くらいしかない。こういう「恋する」といえば「女」になってしまうところが、私はやっぱり日本の古典藝能のあきたりないところであると思った。

中村詳一

中村詳一伝」 藤井禎輔 編著. 「中村詳一伝」刊行会, 1966、という本を入手した。英文学の翻訳家だがほかにもやった人らしい。伝といっても色々な人が書いたものの寄せ集めなので、以下にまとめた。

 

中村詳一(1889年ー1962年10月14日)
山口県阿武郡佐々並村(現萩市)出身。高等小学校卒後、上京し正則英語学校に学び、斎藤秀三郎に英語を学ぶ。卒業後同校講師となる。1906-09年『文章世界』に小品を多く登校する。兵役を1912年におえて田山花袋に師事。1923年成蹊高等女学校の講師となる。1932年満州国資政局訓練局長(のち大同学院)となる。のち帰国、敗戦後郷里へ帰り、村会議員を二期、県立農業高等学校講師などを務める。1955年東洋大学専任講師となる。英文学の翻訳をしたが中には津田英学塾を出た千代子夫人との共訳、正則英語学校の後輩で同郷の吉岡貞雄への名義貸しがある。筆名に紫胡志閑、清風堂主人、高峰生。書を比田井天来に学ぶ。

*翻訳

ガリヴア旅行記』スウイフト 著, 国民書院, 1919(吉岡貞雄)
自然論 附・エマソン詩集 (世界名著文庫 エマソン 著, 越山堂, 1920
ヘレニズムとヘブライズム』マシウ・アーノルド 著, 杜翁全集刊行会, 1921
基督の道』トマス・ア・ケンピス 著, 越善堂書店, 1921(千代子共訳)
ポンペイ最後の日」ブルワー・リットン 世界文芸全集 新潮社, 1923(吉岡)
エマスン詩集 (泰西詩人叢書 聚英閣, 1923
シエクスピヤ物語 (世界名著選家庭文庫) チャールズ・ラム 著, 春秋社, 1926(千代子共訳)
シヤアロツク・ホウムズ 全訳』コナン・ドイル 著, 中村詳一 吉岡貞雄訳. 嶺光社, 1926
誘拐』スチィブンスン 著,凉木貞雄共訳. 開隆堂[ほか], 1926(吉岡)
唐大和上東征伝 和訳』元開 著, 中村詳一 [訳]. 堀朋近, 1942