なぜ美少年趣味につきあわなければいけないのか

 佐藤亜紀の「天使」という、藝術選奨新人賞を受賞した長編小説は、第一次大戦を背景に、超能力を持つ少年を描いた作品だが、半ばまで読んでも面白くないので、文春文庫版の豊崎由美の解説を読んでみた。するとこれは、美少年が貴族的美青年へ成長していくのを舌なめずりしながら読むという美少年趣味の小説であるということが分かり、まあそれなら私が読んでも面白くないのは当然だなと思った。

 だが不思議なのは、豊崎がそのように解説しながら、なぜ世間の文藝評論家はこの才能を理解しないのかと獅子吼していることで、今もやっているようだが、なんで美少年小説を文藝評論家が評価するいわれがあろうか。

 なるほど佐藤は『小説のストラテジー』を読めばヨーロッパ文化に造詣が深いのは分かるし、文章も巧みに書けている。もっとも私は他の作家でも、こういう技巧的な文章は評価しないのだが。

 私が大学に入ったのは1982年で、豊崎も佐藤もだいたい同年代だから同じようなものだが、当時、萩尾望都竹宮惠子や「日出処の天子」がはやり、美少年趣味は藝術でそれを理解しないのはダメだという雰囲気と同調圧力があった。私はむしろ「キャンディ・キャンディ」とか「赤毛のアン」とかの少女ものが好きで、それでも一年次にクラスで美少年ものの「恐るべき子供たち」を劇化して演出したりしていたのだが、実は理解できなかった。トーマス・マンの「ヴェニスに死す」も、何とか理解しようと努力はしたがダメだった。確かに少年の時の神木隆之介に関心はあったが、ビョルン・アンドレセンなんてびた一興味がなかった。そういえば浅田彰にもそんな趣味があったが、彼はバイセクシャルだと言っていた。私は萩尾や竹宮の少年ものも、「日出処の天子」も、今ではほぼ興味がない。

 要するに『ジュネ』なのだが、豊崎はいまだに、美少年ものや少年愛ものが藝術だと思われた時代の空気を引きずっているんではないか。

 佐藤はヨーロッパ貴族趣味で、最近はナチスものが多いが、要するにヴィスコンティの貴族もの映画のノベライズみたいな小説を耽美的に書きたいわけだろう。最新作の『黄金列車』は、少年から中年に移行してなおヨーロッパ趣味というところか。もちろん、そういうのが好きだという人やコアなファンがいても構わないのだが、それが文藝評論家に高く評価されないからといって不満を述べるのは筋違いだろう。美少年趣味につきあう必要はこちとらにはない。

小谷野敦

クッツェー「夷狄を待ちながら」アマゾンレビュー

2020年10月18日に日本でレビュー済み

 
クッツェーはものすごくハンサムだしもてたということはのちの「サマータイム」にも書いてあるのだがそのせいでここでは女の描き方がかなり甘い。セックス描写が多いし女が従順だから、甘ったるい幻想小説に見えてしまう。あとの作品ではそこを修正していくのだがこれはまだダメな部類で、これでは帝国もバーバリアンもあったものではない。

アニー・エルノーの「私小説」

フランスの女性作家アニー・エルノーノーベル賞に擬せられているらしい。15年ほど前、「あっちゃん・コム」という出会い系で結婚相手を探していたころ、アニー・エルノーが好きだという女性がいて、実はアニー・エルノーを知らなかったのだが、その相手には何やら好感を抱いた。結局一度も会わずじまいだったが、エルノーの本を二冊買った。しかるに何だか通俗的な感じがして手放してしまった。

 今回『ある女』という死んだ母親のことを書いた私小説を図書館で借りて読んだ。翻訳は堀茂樹だが、そのあとがきに、最初に日本で訳された『シンプルな情熱』の評判が書いてあった。『シンプルな情熱』は、すでに作家として知られ、50近くなったエルノー、子供もいるが離婚していて、それが十歳ほど年下の妻のある男と恋愛をした経験を描いたもので、フランスでベストセラーになったという。デュラスの『愛人』が日本で刊行されたのは85年で、『シンプルな情熱』は93年に出た。小林信彦盛田隆二藤堂志津子山田詠美が絶賛したという。三枝和子も褒めたが、佐藤亜紀だけが批判したという。フランスでは、これを通俗的だとして批判したのは中年の男性書評家が多く、女性書評家には受けが良かったという。

 堀茂樹佐藤亜紀に反論していて、これに対して佐藤が何か言ったのかどうかは知らないが、私はむしろ佐藤亜紀に同意する。ということはフランスの男性書評家と同意見だというに近い。

 私は『愛人』にしてからが、なんであんなに受けたのか分からないが、フランスにおいては、恋愛が神聖化されすぎるのである。堀茂樹は、エルノーは男と別れても女友だちに泣きながら電話したりしない、と言うのだが、私はむしろそういう「狂乱」の話のほうが好きであり真実であると思うのであった。

コンラッド「闇の奥」光文社古典新訳文庫・アマゾンレビュー

2020年10月16日に日本でレビュー済み
 
コンラッドの作品は、「ロード・ジム」「密偵」とか読んだが、いっぺんも感心したことがない。なんでこんなに評価されるのか謎だが、これなどはさらにわけわからん作品である。新訳で分かるようになる、などというものではなく、ここでは武田ちあきという人が解説を書いているが、何かヤケになったみたいに、物語なんか求めるな、それは通俗だ、とか言い出し、マーロウはサンチョ・パンサだとか言っている。しかし「ドン・キホーテ」は面白いが「闇の奥」は面白くないんだな、これが。これもポスコロの授業で読まされるからジーン・リースとともにポスコロ嫌いの学生を増やしていることだろう。
 
 
 

「暗夜行路」の解釈

「恋妻家宮本」という映画を観た。中学の国語教師で、もとは大学院で日本文学をやっていた阿部寛が、妻(天海祐希)の本棚の「暗夜行路」にはさんである離婚届を見つけて狼狽するという話だ。

 映画やドラマの嘘として、この『暗夜行路』は単行本になっている。しかし普通は文庫版か、志賀直哉全集か、日本文学全集・志賀直哉であろう。

 ところでこの『暗夜行路』は夫が若いころ妻に貸した小説なのだが、その際「好きな女と結婚できなかった男の話だ」と言うから驚いた。それは祖父の妾のお栄のことか。一般的に『暗夜行路』はそういう話だとは思われていない。結婚した妻が従兄と過ちを犯してしまい、時任謙作が苦悩して妻に暴力を振るう小説だが、それが、好きな女と結婚できなかったうっぷん晴らしだというのだろうか。

 原作は重松清の『ファミレス』だったから、図書館で借りてきて見てみたら、その箇所は『暗夜行路』ではなく、アン・タイラーの小説だった。とすると、『暗夜行路』にしたのは監督・脚本の遊川和彦の意向で、『暗夜行路』をこのようにとらえているのは遊川だということになる。

いやがるんじゃねえッ!

志ん朝の「化物使い」には、変わった部分がある。化物が蒲団を敷くのを嫌がるのだ。ご隠居は、「どうして化物ってえのは蒲団を敷くのを嫌がるのかねえ」とこぼし、「嫌がるんじゃねえッ」とどなりつける。

 ここには何か寓意があるのだろうが、私にはよく分かる。志ん朝からすれば弟子が何かを嫌がったのだろう。なんでそう嫌がるのか、という気持ちが、私には分かるのである。たとえば大学などで教えていて、苦労するのは学生に本を読ませることだ。半年に一冊読ませられたらいいくらいで、それもぎりぎりにならないと読まない。こっちとしては週に一冊くらい読ませたいのだが、それは無理だろう。

 学生じゃない大人相手でも、じゃあこの本を読んでとか言って、素直に読む人はめったにいない。大人になると、人から指示されて本を読むのはプライドが傷つくのか、頑として読まなかったりする。中には、この本の最初のほうだけ読んでくださいと言っただけで怒りだす人もいる。

 逆の場合もそうで、本を書くような人に、まあすでにあちらは険悪な雰囲気になっているのだが、じゃあ自信作を教えてください読みますから、と言うと、勃然として、本は頼んで読んでもらうものじゃありません、と言って教えない。いや頼んでいるのは私のほうなんだが。あるいは、どの本を読めばいいですか、と言うと、とりあえず25冊読んでみたらどうですかと、25冊もないのに言う。

 映画を観るのだってそうで、大学の先生がよく授業で映画を見せているが、あれだって、今どき、入手困難なのは別にして、この映画を観ておきなさいと言えば済むのだってあるのに、そう言っただけでは絶対観ない学生がいるからである。

音楽には物語がある(16)国民歌手・中島みゆき(2) 中央公論2020年2月

 

 前回、桜田淳子が歌った中島みゆき作の「しあわせ芝居」について、主体が男だと成り立たないと書いたら、なぜかという疑問をいただいたので説明しておく。これは、恋人関係にある男がいるという女が、気づいたら、いつも電話をしたり連絡をとるのは自分のほうからだ、と分かり、憂愁に沈むという歌である。 

 だが男なら、もしセックスしているなら、別に連絡するのが自分のほうであってもさほど意には介さないだろうし、まだしていないのであれば、してもらえる日を待つということになり、憂愁に沈むことはないだろう。女の場合、それが逆になる。もっともこういう感覚が古くて、今では男でもこういうことで沈んだりするのだろうか。

 初期の「狼になりたい」は、中島みゆきが珍しく男ごころを歌ったものだが、夜明け間近の吉野屋でおそらくバイト明けの不規則な食事をとる、おそらく高卒でコンビニか何かの店員をしているのだろう、女にももてない冴えない男に「ただ一度でいいから狼になりたい」という心の叫びを叫ばせている。のち、男女問わず弱者の味方的な社会派になっていく萌芽が見えるとも言えるが、今なら「狼になんかならなくていい」とも言われそうだ。

 さて中島みゆきは、一九七九年からラジオの「オールナイトニッポン」のディスクジョッキーを務めていたが、ラジオ文化に接しなかった私は聴いたことがなかった。しかしその中島が歌の色調からは意外なまでに陽気で明るいということは、それから数年して、岩波書店の雑誌『へるめす』に載った評論でさえ触れられるようになっていた(藤井貞和「歌の力と巫の力」『へるめす』第五号、一九八五年十二月)。

 私はそれからしばらく中島みゆきは聴かなかったが、久しぶりにCDを買ったのが、大阪へ赴任するころで、「最後の女神」「時代」のカップリングされたシングルであった。九○年代に入ってから中島みゆきは、映画やテレビドラマの主題歌も作るようになっていたが、「最後の女神」はTBSの『筑紫哲也 NEWS23』のエンディングテーマだった。そのせいか、内容がやや分かりにくく、「最後のロケット」などSF的で、セカイ系とも思わせ、「天使たち」なども登場する。何となく面白く思った。

 これと踵を接して出たのが、安達祐実主演で、「同情するなら金をくれ」のセリフで話題になったテレビドラマ「家なき子」のエンディング歌になった「空と君のあいだに」である。私はその後で放送された安達祐実主演の美内すずえ原作「ガラスの仮面」は観たが、「家なき子」は観ていない。ついでに言うと「ガラスの仮面」のエンディング歌「ポーラスター」という、春原佑紀が歌った歌が、歌詞の日本語が少し変だが今でも好きである。さて「空と君のあいだに」は、家なき少女が連れている犬の視点の歌とされている。「君が笑ってくれるなら、僕は悪にでもなる」という「僕」が犬なのだ。今世紀に入ってから、ウルトラマンの歌詞などに「愛する人を守るために戦う」的なものが見られるようになったのだが、私はこういう歌詞が嫌いで、自分を守るために戦うのはいけないことのように感じられるからで、それは「国家非武装、されどわれ愛する者のために戦わん」(野坂昭如)みたいなインチキさが感じられる。