書評・スティーブン・ピンカー『21世紀の啓蒙』週刊朝日3月27日

 「近代が諸悪の根源だ」と言った作家がいた(車谷長吉)。おそらく彼は地主の家に生まれたので、農地改革で土地を失ったと感じたのだろう。だが必ずしもそういう理由でなく、二十世紀は二度の世界大戦で未曽有の死者を出したとされ、核兵器によって人類は絶滅の危機に瀕する、といった筋立てのフィクションも多い。

 認知心理学者でこれまで多くの啓蒙的著作を出してきたスティーブン・ピンカーは、人口あたりの殺害された人数を計算すれば、人類は古代や中世に比べて、ずっと良くなっていると述べる。戦争や暴力、貧困、政治的偏見は少なくなり、医療の進歩は多くの人の命を救い全世界で平均寿命を押し上げている。著者は豊富なデータと巧みな語り口で、啓蒙の現在を語っていく。アドルノとホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』は過去の書物となったとも言える。ただし地球温暖化だけは、対応しなければならない喫緊の課題とされている。

 実際にはこういう内容の著作は数多く出版されているのだが、ジャーナリズムと知識人は、世界は暗黒へ向かっており、日々悪くなっているといった物語を好む傾向がある。おそらくその方がセンセーショナルで売れるからだろうし、より素朴にはピンカーが利用可能性バイアスと呼ぶ、最近のニュースに基づいて過去との比較をせず直感でものを考える傾向のせいでもあろう。日本でも、少年犯罪や残虐な犯罪が増加しているといったデマが一時期盛んだった。

 しかし、共同体が解体して近代人は孤独を感じるようになったのではないか、という問題にはピンカーも手こずっており、「孤独を感じたら、誰か知り合いを誘い、近所のスターバックスや自宅のキッチンでおしゃべりをすればいいだけではないだろうか」(下巻八九頁)などと書いてしまっている。そういう相手がいないことが問題なのに。ここでは姉の心理学者スーザン・ピンカーの『村落効果』という本を紹介してお茶を濁

している。

 ピンカーは理性を重んじる啓蒙主義の立場から、戦争を賛美することもあるロマン主義や、ニーチェハイデッガーフーコーポストモダンを批判する。ピンカーはかつてC・P・スノーが指摘した「二つの文化」文系と理系の乖離に触れているが、ピンカー自身が、日本でも広く読まれているけれど、それこそフーコーを好む人文系の学者や批評家からは冷たい扱いを受けている。ピンカーが代弁したとも言えるチョムスキー生成文法も、日本の文芸評論の世界では黙殺され続けている。

 ピンカーは最後に、キリスト教的な理性批判に反論しているが、イスラム教がイスラム世界の進歩を妨げているとも書いている。それなら儒教も東アジアで進歩を妨げたと言える。日本で言えば仏教が、ピンカーの楽天的な考えに違和感を抱くだろう。ピンカーは人類全体のことを考えているのだが、人は必ず死ぬ、諸行無常である、だから仏教やハイデッガーに惹かれるのが人文系の知識人なのである。『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリもピンカーのこの著と重なる部分はあるが、仏教信仰や動物愛護で一線を画す。

 ピンカーの言うように人類に明るい未来が開けているとしても、残るのは死の恐怖と実存的退屈、孤独の問題だろう。果たしてこの先ピンカーがこうした問題に取り組むのか、避けて通るのか。ピンカーには、チョムスキー生成文法の解説者としての面もあり、『言語を生みだす本能』などの著作もあり、マイケル・トマセロによる批判も受けている。しかし少なくとも日本の人文系知識人は、概してピンカーに対しては冷淡だ。だが彼らは、今後ますます大学でも社会でも居場所がなくなり孤立していくのではあるまいか。

音楽には物語がある(1)あずさ2号 中央公論2019年1月

 兄弟デュオ「狩人」のデビュー曲にして唯一のヒット曲「あずさ2号」は、一九七七年のリリースで、当時私は中学校三年生だった。
 「八時ちょうどの、あずさ2号で」と、歌の語り手であるヒロインは「春まだ浅い信濃路へ」、恋人を置いて別の男と旅立つのだが、当時実際朝八時に下りのあずさ二号が運行していた。作詞は龍真知子、作曲は都倉俊一で、ピンクレディーの曲はほぼ都倉の作曲という当時のヒットメイカーである。今でもあずさ、スーパーあずさという特急が運行しているが、「八時ちょうどの下り」あずさ二号はない。
 ところでこの歌詞はどういう意味なのか。それまでの恋人とはなぜ別れたのか、必ずしも人々は分かって聴いていたわけではないようだ。私が大学生の頃、劇作家の鴻上尚史が、これはお見合いだ、お見合いして結婚して恋人と別れたのだ、と書いていたが、そうじゃなくてもとの恋人は妻もち、つまり不倫を清算する話だろう(鴻上もそのつもりだったかもしれない)。その二年前のヒット曲・都はるみの「北の宿から」も、作詞の阿久悠ははっきり、不倫を清算して女は信州あたりの宿に滞在して男が忘れられずに着てもらえないセーターなど編んでいるのだ、と言っていた。こちらはむしろ、青森じゃなくて信州か、と驚く。
 その翌年、七八年三月に、当時人気絶頂「お嫁さんにしたい女優ナンバーワン」と言われていた竹下景子が、デビュー曲「結婚してもいいですか」を出した。鎌倉を舞台に、恋人のいる若い女のところへ、母親がお見合い話を持ってきて、「結婚してもいいですか」と男に問いかけるところから始まる。当時私は竹下さんのファンだったから発売日に買いに走った。ところがこれも、よく意味が分からない。中里綴の作詞だが、結局何のことはない、これも「不倫脱却」の歌なのである。
 ところが、そのシングル盤発売日のテレビ「スター千一夜」に竹下が出演した。司会は関口宏で、すでにその時点で、二十四歳の竹下が、写真家の関口照生、つまりのちの夫と交際していることはすっぱ抜かれていて、関口宏も軽くそれに触れたりしたのだが、いざそのデビュー曲の歌詞について、なんでその恋人とは結婚できないんですか、と関口が訊いた時、竹下が「さあ、なんか煮え切らないんじゃないですか」と答えたのだ。
 だが今になって考えたら要するに妻ある男との不倫の歌で、関口も竹下もそれは分かっていたのではないか。そう思うと、この当時の歌謡曲の「女歌」の多くは、男が妻もちの不倫だったような気がしてくる。中条きよしの「うそ」「理由」なども、いかにも子供には分からないという風な男女の淫靡さを漂わせて、そうらしく思えるし、三善英史のこれもやや意味不明なヒット曲「雨」ももしかしたらそうかなと思えるし、疑えば、当時十六歳の小坂明子の自作自演の大ヒット曲「あなた」もそうじゃないかとすら思える。
 だがその逆、つまり人妻が夫以外の男と恋愛している歌謡曲というのは、とんと見当たらない。もっとも金井克子の「他人の関係」とか、ジュディ・オングの「魅せられて」などは、あるいはそうかとも思える。
 「妻ある男との不倫」歌は、分かっている人は分かっているのだがはっきり言わないという、公然の秘密めいたものになっているようである。川端康成の『雪国』の、「君はいい女だよ」というセリフが、名器のことをさす(と受け取られた)とは、私はあとになって論文を読むまで知らなかったのだが、分かっている人には分かっていたらしい。どうも世間にはそういうことがあるらしい、と思ったのである。

「あるいは裏切りという名の犬」と男の子っぽさ

 フレンチ・ノワールの映画「あるいは裏切りという名の犬」を観たのは、「おんな城主直虎」のうちのサブタイトル「あるいは裏切りという名の鶴」の元ネタだったからで、映画の原題は「オルフェーヴル河岸36番地」なので、邦題は筒井康隆の「あるいは酒でいっぱいの海」からとったか、別の源泉があるのか知らない。

 パリ警視庁内で次の所長の地位を争う二人の確執を描いているのだが、実際に所長になるのがジェラール・ドパルデューで、こっちが悪者風に描かれていて最後は殺されてしまうのだが、もう片方のダニエル・オートゥイユも結構なクズにしか見えず、いろいろ変なところもあって嫌な映画だった。

 オートゥイユのほうの妻は、途中で犯人と接触しているところをドパルデューに車で追走され、車が横転して死んでしまうのだが、ドパルデューはしたい(?)に銃弾を撃ち込んで、犯人が射殺したことにする。かつて二人はこの女をめぐって争ったらしいのだが、そのことは詳細には描かれない。そのことも含めて、女性嫌悪的な雰囲気すらあった。

 ところで池波正太郎はフレンチ・ノワールが好きだったのだが、その作品には男性中心的で男の子が喜ぶ的な要素が強い。私は日本の時代小説作家の中で池波が好きになれない。というか嫌いである。往年の「角川映画」にも、「男の子」っぽい、荒っぽい生き方や女性嫌悪的なところがあったと思う。

 たとえば「007」は、男の子っぽくはあるが、ジェームス・ボンドがすぐに美女と寝てしまうことで、女性嫌悪は、まああるのかもしれないが露骨には出ていないというふしがあった。

 

「コマンドー」(マーク・レスター)中央公論2018年12月

 夏樹静子の初期長篇『蒸発』の冒頭で、離陸した飛行機から、乗ったはずの乗客が一人いなくなっているというトリックが出てくる。けっこう複雑なトリックだったが、「コマンドー」でアーノルド・シュワルツェネッガーは、離陸した飛行機から車輪脇の出口を使って難なく脱出している。
 私が初めてシュワルツェネッガー(以後シュワ)を観たのは「ターミネーター2」で、これがキネマ旬報ベストテンに入っていたからである。意想外に良かったので、1や3も観た。むしろ感動したといっていい。
 本連載も最終回なので、それなら「ターミネーター」シリーズについて語るのが筋だろうが、ここはあえて娯楽大作「コマンドー」である。なお監督のマーク・レスターは子役で知られた人とは同名異人である。
 シュワはかつて米軍の部隊の長だったメイトリックスで、今は引退して山荘に住んでいるが、突如襲撃されて娘(アリッサ・ミラノ)を人質にとられる。かつて南米の国で
クーデタを起こした独裁者アリアスを追放して大統領を立てたのだが、そのアリアスが襲撃してき、娘を人質にして、南米のその国の大統領を殺してこいと命じる。
 シュワは監視一人とともに飛行機に乗せられるが、これを難なく殺して飛行機を脱出、娘を取り戻すべくアリアスのアジトへ向かう。
 飛行場で戻ったところで、敵の一人がちょっかいを出した女(レイ・ドーン・チョン)を利用するのだが、この女が最後までシュワの協力者になる。見ているとただのわき役かと思ったのが重要な人物になるあたりもうまい。
 最後は一人で敵のアジトに乗り込み数百人を相手に戦う。荒唐無稽でも、どこか筋が通っていて、娯しませてくれる。私は「純文学」派だと思われているので、こういう娯楽映画が好きだと意外に思う人がいるようだが、ちゃんと面白ければいいのである。ところがこの、ちゃんと面白い娯楽映画を作るというのが意外と難しいというわけである。

ご飯だご飯だ

 私はYMCAのキャンプに一度だけ参加したことがある。友人の川田と二人で行ったので中学生のころだが、そこで「線路は続くよどこまでも」の替え歌「ご飯だご飯ださあ食べよう」を初めて聞いた。

 この替え歌については、祖父の代からキリスト教阪田寛夫の兄・一夫の作詞という説もあるらしい(内藤啓子『枕詞はサッちゃん』)

「だれかの木琴」(東陽一)中央公論2018年10月

 先日、某週刊誌が、同誌読者が選んだ「美熟女」の中で五位になった女優Sについてのコメントを求めてきたのだが、その際、常磐貴子はいないんですかと訊いたら、はるか下七十位くらいにいたという。このアンケートでは上位にまだ三十代の壇蜜もいたし、おそらく高齢男性読者のイメージの中に、常磐貴子というのはあまりいないのだろうと思った。四十五歳になる。
 常磐貴子は「シャンプータイム」の頃から知っているが、正統的美女というわけではない。しかし時にたいへん美しく見える。井上荒野原作の「だれかの木琴」では四十歳くらいの人妻・小夜子を演じているが、息を呑むほどに美しい。
 東京郊外か、夫と息子とともに転居してきた人妻が、立ち寄った理髪店で担当してくれた理髪師・海斗(池松壮亮)のストーカーになってしまうというものだが、池松は私には別に美男には見えないのに、同年の「裏切りの街」(三浦大輔)では、寺島しのぶの人妻とセックスしてしまう役をやっていて、何か年上の女を迷わすものでもあるのだろうか。
 たまたま海斗が社交辞令的に携帯のメルアドを教えたのに、小夜子が新しく買ったベッドの写真を送ったのが手始めで、海斗が彼女(佐津川愛美)と一緒にいるのに出くわし、彼女が働いているブティックへ小夜子が赴いて、そこで衝動的にウェディングドレスのようなものを買い、夜中に海斗の家のドアへ掛けてくる。
 もっとエスカレートして「危険な情事」のようなホラーになるのかと思ったらそうでもなかった。この映画の妙な味わいは、ストーカーをするほうが美女だというところで、二十代の男が四十前後の女にストーカーされて、相手が美女だったらどんな気分なんだろう、と想像させるところがいい。
 題名はヒロインの、子供の頃町を歩いていると誰かが弾いている木琴が聞こえてきた、という特に内容と関係のない回想から来ている。常磐貴子が美しい、いい映画だと思う。

「パッセンジャー」(モルテン・ ティルドゥム)中央公論2018年9月

 特撮ドラマ「シルバー仮面」の最終回が、アンドロメダ星雲からやってきて死んでしまった女の赤ん坊を帰すため、春日兄弟が光子ロケットで往復六十年かけてアンドロメダへ行くために出発するという話だった。一九七二年の放送だから、帰ってくるのは二〇三二年でまだ先のことだ。しかし春日兄弟は六十年も生きていられないので、甥の男の子と、岸田森の娘の二人の子供を同乗させる。つまり帰還できるのはぎりぎりこの二人ないしその子供ということか、と小学生の私は興奮したものだ。
 「パッセンジャー」は未来SF映画で、百二十年かけて他の星へ移住する宇宙ロケットの中で、多くの人間が冬眠している。その中でふと目覚めた男ジム(クリス・プラット)は、自分が原因不明の機械の不調のために目ざめ、まだ出航して三十年しかたっていないことを知る。冬眠状態に戻るすべも分からない。このままでは、孤独に宇宙船の中で年老い、死んでいくことになる。地球との連絡はとれない。恐怖に襲われたジムは、眠る乗客の中から一人の美しい女オーロラ(ジェニファー・ローレンス)を選びだし、人為的にその眠りを覚ましてしまう。
 ほかに話し相手といえば、バーにいるロボットのバーテンダーだけだが、もう一人、ロケット管理をしている者が目覚め、宇宙船の不具合を三人で修正するというアクションシーンがあるが、残る一人は死んでしまい、男女がまた残される。ロボットのバーテンダーが勘違いから口を滑らせたため、ジムが意図的に自分を目覚めさせたと知ったオーロラは怒り狂い、二人の関係は険悪になる・・・。
 ロマンティックな娯楽SF映画で、いいと思うが、ヒロインのジェニファー・ローレンスが、美人に見えるけれど、怒った時の顔があまり美しくない。ちょっと破調の美人なのである。しかしそれもまたこのロマンティックSFの微妙な隠し味めいていてよかろうと思う。とはいえ、科学が進歩しているわりに妙な不具合が生じるものだ、とも思わないでもない。