事実に意味があるのである

もう五年くらい前の本だが『文豪の女遍歴』(幻冬舎新書)への感想についての感想を書いておく。

 読者はがきの中には「今度は一人の作家を掘り下げてください」などと書いてあるのもあり、参考文献に私の名前をつけて『谷崎潤一郎伝』とか『川端康成伝』とかあげてあるのでへなへなしたが、これは高齢者だろう。

 気になったのが「そういう異性関係が作品にどう影響したか」を書くものだろう、といった感想で、私は「作品に影響した」ことを常に考えてはいない。それなら「総理の女遍歴」なら、それが政策にどう影響したかを追求するのだろうか。

 加藤周一の『羊の歌』に、仏文科の鈴木信太郎の授業に出たら、マラルメの家賃がいくらだったかという話を一時間していて呆れたと書いてある。家賃が作品に影響したとも思われないが、学問というのはそれでいいので、まず事実を明らかにするのである。

 昔の伝記研究ならそんなことは当然だったのだが、テキスト論とかの普及のせいか、作品に影響しないことを調べるのは意味がない、とでも思う人が増えたのだろう。歴史学では、ある事実を書いて、「それはどのような影響を与えたのか」といちいち問われることはなかろうが、文学研究というのはある意味後退しているので、そういうことが起こる。

 数年前に川端康成の「千代」宛ての恋文が公開された時、こんなものが公開されてかわいそう、という声があって私は驚いたのだが、ある種の人は、他人の性的閲歴を調べるのを覗き趣味のように感じて恥じており、それで「作品に」といった口実が必要になるのであろうか。

小谷野敦

古川健「治天の君」

古川健(たけし)の「治天の君」は、原武史の本を参考に大正天皇を描いた戯曲で、2013年初演、ハヤカワ演劇文庫に入っている。読んでみたが、言葉の間違いが多い。

まず明治天皇が「現人神」などと言うが、私の理解ではこの言葉は昭和になって言われるようになったもので、明治天皇が言ったかどうか。

最初のト書きから、天皇夫妻を「人民の頂点に立つ」などと書いているが、それでは総理大臣のことになってしまう。「臣民の上に立つ」の間違いだろう。

明治天皇大正天皇に「皇太子殿下」などと呼び掛けているがこれはないだろう。

20p「詰め込み教育」などという言葉が出てくるが、これは1970年代に出てきた言葉であろう。

語り手として貞明皇后節子が語っているのだが、「だ・である」調で、これはですますにすべきだろう。その節子が息子を「裕仁」などと呼び捨てにしているがこれもないのでは。「迪宮」あたりではないか。

93p「大正ロマン」などという言葉が出てくるがこれも当時あった言葉ではなく、1980年代に出てきた言葉だ。

103p「前準備」準備は前にするものに決まっている。

原敬に「首相」などと呼び掛けているが、「総理」ではないのか。戦前は「首相」と呼び掛けたという用例があるならいいが。

107p「今なお陛下の魂魄は」これ大正天皇がまだ生きている時の話。

なんだか、樋口覚三島賞をとった『三絃の誘惑』を思い出した。

 

 

「忠臣蔵」と教養

 NHKのBS-プレミアムでやっていた渡辺邦男の「忠臣蔵」(長谷川一夫、1955)を観たが、わりあいテキパキして良かった。特に私の好きな「南部坂雪の別れ」がよかった。垣見五郎兵衛の話は記憶になかったが、これも講談ネタらしい。

 1975年に「元禄太平記」が放送されたとき私は中学一年だったが、最後の討ち入りで「女子供には手を出すな」と言うのだが、途中で女もののかつぎをかぶって逃げようとする武士を「待て!」と言って止め、討ち果たすシーンがあった。私は「女子供に手を出すなと言ってるのになぜ女を呼び止めるの」と父に訊いた。ところが父は私の言ったことを繰り返して「・・・なぜ呼び止めるんだって?」と言ったまま、母と二人でへらへら笑っているだけだった。「女に化けた男だと見抜いたから」だと言えばいいのが、分からないか、分かっても言語化できなかったらしい。

 のち私が大学生になって歌舞伎を観るようになって分かったのだが、うちの両親は、漠然と「忠臣蔵」は知っていても、歌舞伎のそれのことは全然知らなかったようで、その時はかなり悲しかった。教養なんかなくていい、と私は思えないが、それはこういう経験があるからである。

小谷野敦

安部公房「砂の女」

 安部公房の「砂の女」というのは、20代のころ読んで、あまりピンとこなかったのだが、あとになって、結婚の比喩だろうと思ったら分かった。しかしそんな小説を書かれた安部真知夫人は嫌だったろうが、だからみな遠慮してハッキリ言わなかったのかもしれない。

 それを勅使河原宏が映画化していて、岸田今日子砂の女を演じて半裸になったりするのだが、これも若いころ観て、気持ち悪い裸だなあ、と思った。まあだいたい岸田今日子は気持ち悪い。しかし、当時の落語家がまくらでこの映画のことを言っているのを聴いていると、その人はけっこう岸田今日子の半裸をエロティックに感じていたような気がして、人さまざまだなあと思った。

 しかし私は安部公房というのはダメで、そのほかいくつか読んだが少しもいいとは思わなかった。

小谷野敦

全員一致は無効

アマゾンレビューで割と多くの人が書いているのにみな五点か四点である時に、私は一点をつけることがある。もちろんダメだと思ったからだが、わりとこれは積極的にやっている。多数の一致は疑わしく、少数意見が大切だと思うからだ。

 イザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』に、ユダヤの社会では全員一致の評決は無効とする、と書いてあり、事実ではないらしいが、山本七平の思想としては面白い。

ja.wikipedia.orgここにも「全会一致の場合は、議決を無効にし、議論を振り出しに戻す制度もある。全員が賛成、あるいは反対という場合には、どこかで少数派が自己の考えを放棄し、多数派に同調したと考えられるからである。 」とある。

 ところが、多数が絶賛しているのに一点をつけるお前はおかしい、と言うやつがいて、こういうやつばらは少数意見尊重という考えを理解しないらしい。ならば選挙で自民党が多数を得ているのだから政府に文句を言うな、ということになってしまう。

小谷野敦

文藝家協会ニュース編集後記

日本文藝家協会御中
 いつもお世話になっております。会員の小谷野です。
「協会ニュース」の二月号が届きましたが、編集後記が気になりました。遣唐使廃止か
ら明治維新まで日本が他国と無交渉だったなどというのは事実ではありません。日宋貿
易もあり北宋から多くの知識人が来ており南蛮人も来ています。よって論旨にかたより
があります。さらに後ろのほう「ありき」が誤用されています。
 同じ執筆者かどうか分かりませんが、以前、日本には世間があるが西洋にはない、な
どと書いてあったこともありますが、そのような事実はありません。(学問的に証明さ
れていません)
 はっきりと署名のない文章なので扱いづらく、編集後記の欄において個人的な見解を
表明するのはやめていただけませんでしょうか。